日本共産党

2002年2月4日(月)「しんぶん赤旗」

輝いてしなやかに

物語 男女差別裁判の40年(60)

3章 女性労働はいま

“泣き虫母さん”の変身

ケンウッドの柳原和子さん(下)


 柳原和子さんのふるさとは山形。鳥海山のふもとの雪深い村で農家の長女に生まれ、“むこをとって農家を継ぐんだ”といわれながら、「いつかは都会へ出る」とひそかに夢を育てて。口数少ない少女の胸に燃えていた小さな火は、裁判の日々“どこにこんなエネルギーが”といわれた秘密のカギかもしれません。

写真
量販店前の宣伝は、音響機器メーカーのケンウッドには大きな圧力でした=98年5月、東京・新宿

 九三年九月二十八日、東京地裁判決は「配転命令は有効」でした。《均等法の配慮義務はあるがこれは配転命令上の配慮まではふくまない》と。柳原さんは「負けちゃった、アハハ…」と笑ったあとは、怒りで涙、涙。「自分では覚えてないんですが、『こんな判決、人間の血が流れている人がだした判決とは思えない。ぜったい許せない』といったそうです」

 長い長い時間が過ぎていきます。法廷で「本社にはブルーカラーはいらない」「原告は夫の出張中飲み歩いていた」という侮辱、ウソに、「あなたは見たのですか。そのとき私の子どもはだれがみていたのですか」ときぜんとして抗議。「子どもたちよ、あと少しの辛抱だからね」と心でいいながらがんばりました。

 そして、東京高裁判決(九五年九月二十八日)も控訴棄却。さらに五年後、最高裁判決(二〇〇〇年一月二十八日)で敗訴は確定します。「許せない判決。均等法や育児介護休業法は女性の味方じゃなかったんでしょうか」。日本も批准したILO156号条約、165号勧告は、配転にあたって「家族的責任及び配偶者の就業場所、子を養育する等事項を考慮すべき」としているのに――「どの判決もいいわけのようなんです。“異動は大変かもしれないが”といいながら、“甘受”しなさいなんて。大変と思うなら、結論もそう書けばいいじゃないですか」

 裁判は敗訴でも、運動の広がりは大変なものでした。「柳原さんへの攻撃は働く女性みんなへの攻撃だ」。ケンウッド本社、オーディオフェア会場や量販店前の宣伝…。ハワイのヨットレース、ケンウッド杯会場での宣伝は、国際的にも反響を広げました。最高裁も世論を無視することはできず《未修学児をもつ女性労働者の立場にはなお十分な配慮を要する》《雇用契約当時予期しなかった広域の異動が許されるものと誤解してはならない》という補足意見をつけました。

 最高裁判決の年の暮れ、十二月二十七日には、会社が「柳原和子さんの将来について配慮ある措置をとる」と意思表示したことを受けて、和解が実現。新しく大田区に守る会が生まれるなど、なおひろがる支援の輪が、ついに会社を動かしたのです。

 男も女も家庭と仕事を両立して人間らしく働ける社会を願って、十二年十カ月。やめたいと思ったことも、いいつくせない苦しみもありました。でも、「いま思うとやめないでよかった。もし争議をしなかったら、私はいまも女性週刊誌の世界で、『どうせ世の中変わらないわよ』なんて、民主主義の言葉の意味も考えなかったでしょう。人生何が起きるかわからないけど、苦しみのあとにはきっと喜びもまっているんだと思いますね」

 おみくじを引いたら大吉で、「年賀状に“ことしこそいいことがありそう”と書いたんですよ」とにっこり。たたかいが泣き虫母さんをきたえたようです。(つづく)

 


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