日本共産党

2002年1月20日(日)「しんぶん赤旗」

輝いてしなやかに 物語 男女差別裁判の40年(46)

日立製作所の女性たち

でも、やっぱりおかしい


3章 女性労働者はいま

 東京・小平市にある日立製作所武蔵工場。三屋裕子、中田久美、大林素子らを生んだ女子バレーボールの名門「日立武蔵」を思い出す人も多いでしょう。一方、残業を拒否しただけで解雇された田中秀幸さんの事件、七〇年代に働きつづける女性六人を不当に隔離した「ガラスのオリ」事件でも“有名”です。

 高倉正子さんが就職した一九六四年ごろ、武蔵工場の周囲は一面キャベツ畑だったといいます。新潟の農家の生まれ。中学を卒業して集団就職列車に乗るとき、「母が駅に送りにきて、涙、涙。私はなぜか泣けなかったんです。でも汽車がトンネルに入ったとたん、もう帰れないと思ったんでしょう、涙がとまらなくなって」。その後も、会社の屋上から故郷の方角を見ては泣きました。

 武蔵工場は五九年に創設。中卒が“金の卵”といわれた時代、同時に入社した少女は千人近く。多くは寮に入れられました。高倉さんが入った五百人収容の若葉寮は六畳の部屋に六人が相部屋。「仕事は二交代、朝は星空の下で、みんな目覚ましがガンガン鳴っても起きないんです。疲れて、とにかく眠かった」

 仕事以外にも企業内の「学園」でお花、料理などの“花嫁修業”。「よそに出かけるのを防ぐねらいもありました。学園は三年間、女は結婚して家庭に入るのが美徳と教えられる」。門限は九時で「映画も最後まで見られない」。遅れて帰ると当人だけでなく同室六人でトイレ掃除など罰当番をさせられました。

 希望に胸をふくらませて農村からきた少女たちにはきびしい現実です。シャンプーを飲んで自殺をはかる騒ぎも…。「職場が苦しく家に帰りたいけど事情で帰れない人もいましたから」。武蔵工場では夢破れて年に千人もやめていきました。

 入社時から男女差別は厳然としていました。男性は技能者養成所で教育を受けます。「女性にそんな機会はありません。高卒男性は三年で養成所を卒業して幹部候補生として配属され、三年もすると女性百人くらいのラインを監督するようになっていくんです」

 高倉さんの職場は、昔はトランジスタ、いまはICをつくっています。男性は学んだことを生かして装置を操作し、女性は一日顕微鏡を見ながら七千〜一万個の製品を検査しました。単調で忍耐のいる、熟練が必要な仕事ですが、賃金にかかわる職級は男性が八職級までいくのに女性は五職級まで。高倉さんはがんばって装置操作を覚え、十年以上男性と同じ仕事をしました。それでも、同期の男性がほとんど監督指導職になった後もずっと技能職、五職級に据えおかれたままでした。九二年、高倉さんをふくむ六事業所の女性十七人が社長あてに出した要請書に、こうあります。

 《私たちは自分の意思ではなく「女」に生まれてきました。それなのにどうしてこんなに差別を受けなければならないのでしょうか。学校を出て精いっぱい働こうと希望に燃えて日立製作所に入社しました。ところが、以来ずっと我慢を強いられてきました。でもやっぱりおかしい。もう我慢できません。私たち女性を一人の人間として認めて下さい。これが私たちの要求です》

(つづく)

 


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