2002年1月12日(土)「しんぶん赤旗」
庄子 社会主義ならではの積極的な目標をしめしているのが、利潤第一主義の克服という第三の点ですね。
不破 利潤第一主義の克服というのは、社会主義の目標をわかりやすい言葉で表したものなんです。
社会主義とは、生産手段を、利潤の追求を第一の行動原理にしている個々の資本の手から、社会――マルクス流にいうと「結合した生産者たち」の手に移すことなんですね。これが「生産手段の社会化」です。
この原理的な意義には、次の二つの柱がある、と思います。
第一は、人間による人間の搾取をなくすこと。生産者が、雇われる立場の人間から、経済と生産の主人公に変わること。これがまず第一の柱です。
第二の柱は、経済の体制を、個々の個人や企業の私的なもうけ(利潤)のための生産から、社会全体の利益のための生産に切り替える、そのために、生産を社会の管理下におく、ということです。
この二つの柱が、社会主義の原点なのです。
第一の問題から考えてみますと、「資本主義万歳」派の人たちは、“資本主義も様変わりした、人間による人間の搾取も、貧困も過去の話になった、国民に豊かさが保障されている社会に現になっているじゃないか”といったことをよく言っていたでしょう。
関口 これは、よく聞かされた話ですね。
不破 しかし、それは空文句だった。そのことは、長期不況下で、多くの国民が社会保障の低水準や失業の増大で悩まされているいまの日本の現実を見れば、だれにでもわかります。
いまの日本は、経済力の絶対水準からいえば、国民全体の生活を基本的に保障できるだけの力を、明らかにもっていると思います。
さきほど、世界情勢のところで経済力の比較の話をしました。具体的な数字をあげて、日本と他のアジア諸国との対比をしてみますと、日本以外のアジア諸国の一人当たり国民総生産は、一九九九年の平均で約八百十ドルです。これにたいして、同じ年の日本の国民総生産は三万二千三十ドル。国ごとの購買力の違いなどの問題がありますから、単純に四十倍の開きだとはいえませんが、大ざっぱにいっても、三十倍以上にものぼる経済力の違いがあることがわかります。
日本社会は、それだけの豊かな富を生産するだけの力と、実際にそれを生産してきた実績をもっているのです。その経済力がきちんと社会のために使われれば、国民全体の生活を保障できるはずなのに、現在の仕組みでは、せっかくの経済力がそういう合理的な使われ方をしていない。そのために、生活をおびやかす貧困もあれば、ひどい社会的格差もある、政治の風向きいかんで、医療、雇用、年金など生活の基礎的な条件までおびやかされることになる。しかも、その一方、とんでもない富の浪費が、途方もない形と規模で起こっている。
もしこの仕組みを変えて、生産者が、雇われる立場から、経済と生産の主人公になり、経済力とその成果が、国民全体の生活を保障する方向で使われるようになったら、同じ経済力を土台としても、国民生活のあり方が根底から変わってくるはずです。
もう一つは、私的な利潤のための生産から、社会全体の利益のための生産に変える、という問題です。
マルクスは、資本主義経済を批評して、資本主義のもとでは、「社会的な悟性」はいつも“祭りが終わってから”働く、という名言を残しています。「社会的な悟性」というのは、哲学用語をまじえた言葉で、物事を合理的に取り扱う社会的な知恵のことです。ですから、ここで言っているのは、資本主義社会では、矛盾が爆発し現実に破局が起こったあとで、はじめてことの道理がわかり、“あの時、こういうやり方をしていれば、破局は起こらなかったのに”と嘆く、こういう資本主義批判なのです。日本のことわざで言えば、「あとの祭り」ということでしょう。
マルクスは、『資本論』のなかで、資本主義社会のこの状態に、社会主義、共産主義の社会を対置して、共産主義社会では、社会的な知恵を最初から、いわば先手をうつ形で発揮し、生産や経済の合理的な運営をはかるのだと、共産主義社会の優位性を大いに強調したものです。
これまで見てきたように、現在は、「社会的悟性」が先手をとって働いてくれないと、社会の前途があやぶまれる、こういう状況がいよいよ強まっている時代です。長期不況の問題、地球環境の問題、南北問題などを見ても、資本主義は、世界的に大規模化した巨大な経済を、うまく管理できないところに来ています。この現状を根本から打開するためには、生産手段を社会の手に移し、「社会的な悟性」(マルクスは「結合された理知」と呼ぶときもあります)が先手をうって働く、そういうよりすすんだ社会形態に前進してゆく必要があります。それが社会主義です。
私たちは、社会の段階的発展論に立っていますから、そういう理想社会に一挙に飛躍しようということでなく、社会の進歩的な改革の道を一段一段着実に踏みかためながら、国民とともに前進してゆくつもりですが、二十一世紀の世界的な条件は、そのためにも、大きな方向を見定めることが、非常に大事だというところに来ている、と思います。
庄子 マルクスは、『資本論』のなかで、社会主義、共産主義の問題をずいぶん立ち入って論じているんですね。
不破 まだマルクスが健在な時期に、エンゲルスがドイツのある出版物に、マルクスを紹介する文章を書いたことがあるんです。そのなかで、エンゲルスは、『資本論』を、「マルクスの経済学的=社会主義的見解の基礎と、現存社会つまり資本主義的生産様式とその諸結果とにたいする彼の批判の大綱とを叙述したその主著」(「カール・マルクス」一八七七年)と特徴づけています。マルクスの経済学的見解と同時に「社会主義的見解」の基礎を叙述した著作だという意義づけですね。実際、マルクスは、『資本論』のなかで、社会主義、共産主義社会の諸問題を、実にさまざまな角度から論じています。
実は、ここに、強調したいもう一つの点があるのです。マルクスは、『資本論』のなかで、現在の社会――資本主義社会の矛盾からの人類史的な活路が社会主義、共産主義への前進にあることを証明し、それが人間社会のどのような発展方向なのかを大づかみに明らかにすることはしましたが、この未来社会の青写真を描きだすことは、いっさいしませんでした。つまり、科学的社会主義による未来社会の設計図はこれだといって、将来の世代の手をしばることはやらなかったのです。これは、非常に重要なことなんです。
のちにエンゲルスは、ドイツの若い理論家で、共産主義社会に移行するさいの見取り図を書こうという勇ましいことを考えた人物が現れたとき、そんなことはできるものではない、新しいトラストが一つできただけで、条件は変わり、攻め方も違ってくるじゃないかと、それをたしなめる手紙を出したことがあります(シュミットへの手紙、一八九一年七月一日)。
マルクスとエンゲルスのこの態度は、科学的社会主義者の態度として、たいへん理性ある賢明な態度でした。エンゲルスは新しいトラストができたら条件が変わってくるといいましたが、マルクス、エンゲルスが活動した十九世紀と現代との社会的な変化の大きさは、一つのトラストの出現などと比較になるものではありません。電力がまだ登場したばかりで産業でも蒸気力が主力だった時代の資本主義社会と、IT革命が熱い問題になってきた時代の資本主義社会とでは、生産を社会の管理下におくといっても、その形式、方法、内容が大きく違ったものとなってくるのは、当然のことです。だから、マルクス、エンゲルスは、自分たちが活動した時代の条件を固定化して、いつでもどこでも通用するような青写真を書くことはしなかったし、そういうことをやろうという「社会主義者」には手きびしい批判をくわえたのです。
私たちがいま、二十一世紀の世界における社会主義への大きなうねりを展望するときにも、この見地はたいへん大事なものです。二十一世紀には、さまざまな国が、社会主義をめざす道にふみだすでしょうが、どういう道筋で新しい社会にすすんでゆくのか、その社会はどういう形態になるのか、これらはすべて、それぞれの国民が、国民的な歴史と経験をふまえ、英知と努力をつくして創造的に解決してゆくべきことです。こうした多様な努力がたがいに合流しあって、人類史の新しい時代を開いてゆく、それが二十一世紀でありたい、と思いますね。
庄子 日本共産党が社会主義的な未来を大きく展望しながら、さきほどの話にあったように、社会の段階的発展という立場をふまえ、日本の現状が求めているのは社会主義ではなくて、民主的改革だという方針を打ち出したことは、国際的に見ても先駆的な意義をもったと思います。そのことの意味を、現在の時点で考えると、どんなことが問題になるでしょうか。
不破 これは、やはり日本共産党の路線のなかで、国際的にも注目されている点の一つだと思います。さきほど紹介した北京での国際シンポジウムでも、田代さんは、かなりの部分をその点にあてて報告しました。
私は、一九六一年に綱領を決める時には、党の中央にいないで、支部から討論に参加したものでしたが、あのころは、世界の共産党のなかでは、高度に発達した資本主義国では社会主義革命を任務とするのが当たり前という風潮で、日本のような国で民主主義革命論をとなえるというのは、変わり者扱いされたようですよ。そういうなかで、日本の現実を「科学の目」で正確に分析して、民主主義革命という路線を定めたことは、歴史的な意義をもつことでした。
民主主義革命というのは、資本主義を廃止する社会主義の実現を当面の任務にしないで、真の独立と同時に政治・経済・社会の徹底した民主主義をめざす、ということですから、その内容は、文字どおり「資本主義の枠内での民主的改革」です。
いま国際的な動きを見ますと、資本主義がこれだけ危機的な様相を深めている時、危機的な現状にどういう改革の方向を対置すべきかという点で、いろいろな模索や探究があり、北京の会議にも、それが反映していました。資本主義が危機だから、社会主義をそれに対置することで済むかというと、ことはそう単純ではないからです。国民的な多数派を基盤に変革をめざして前進するためには、いろいろな模索は避けられません。日本共産党の民主主義革命論、民主的改革論に注目が寄せられる背景には、こういう状況があると思います。
それから、さきほど、今日の政治的争点について、国民の立場に立った「日本改革」か、アメリカと大企業の立場に立った小泉「改革」かが問われると言いましたが、党の綱領を決定してから四十年をこえる自民党政治との対決を通じて、わが党の民主的改革論の現実的意義が証明されてきた、というところに、いま大きく目を向けるべき点がありますね。
さきほど、自民党の長老政治家の最近の発言を紹介しましたが、こういう発言も、保守の立場で見ても、外交面で真剣に現状打開の方向を追求しようとしたら、わが党の改革論におのずから接近せざるをえなくなる、こういうことの表れですから。
関口 そうですね。
不破 いまいろいろな形で、わが党の改革路線の値打ちが、日本の現実政治の動きのなかで証明されている、ということが重要なんです。
日本共産党は、二十一世紀にふさわしい大きな変革の展望をしっかりもっている政党であり、「科学の目」で未来を壮大に展望している政党です。そういう政党であるからこそ、日本社会の当面の問題でも、国民の切実な要求を政治に生かす改革のプログラムを大胆に打ち出せる。そこに、日本共産党の値打ちがあることを、強調したいと思います。
(つづく)
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