日本共産党

昨年3月5日におこなわれた
鈴木宗男議員とロシア外務次官の会談記録について

2002年3月19日

日本共産党幹部会委員長 志位 和夫


 日本共産党の志位和夫委員長が十九日に発表した「昨年三月五日におこなわれた鈴木宗男議員とロシア外務次官の会談記録について」の全文は、以下のとおりです。

 昨日、私あてに、昨年三月五日におこなわれた鈴木宗男衆院議員とロシュコフ・ロシア外務次官の会談記録が、届けられた。

 文書には前文が付されており、そこにはこのように書かれていた。

 「この記録は当時の佐藤主任分析官が保管する書類の中から昨年入手したものです。この記録からも明らかなとおり、鈴木議員と東郷局長は政府の基本方針に反するメッセージをロシアに伝えていた一例です。内容からもお察し出来ると思いますが、この記録は外務大臣にも官房長官にも報告されませんでした。また、外務省にも正式な記録は残っていません」

 この記録を事実に照らして検証した結果、間違いないものであると判断した。会談記録は、対ロ領土交渉で、二重交渉がおこなわれており、それが現実に日本外交をゆがめていたというきわめて深刻で、重大なものである。

この会談にいたる事実経過について

 プーチン大統領は、二〇〇〇年九月の訪日のさい、これまでの両国間の合意の中には、一九五六年の日ソ共同宣言が含まれると口頭で確認している。これ以降、日本外務省内では、歯舞・色丹の「二島先行返還」論が台頭しはじめたとされている。鈴木議員は、「二島先行返還」論の推進者だった。彼らは、「四島一括返還」をとなえ四島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶことを主張する勢力と対立するようになった。

 ロシア政府は、二〇〇〇年十一月三十日、日ソ共同宣言の歯舞・色丹の引き渡し条項は、「二島返還で領土問題を最終決着させるという規定だった」との見解を、正式に日本政府に伝えた。

 こういう状況のもとで、鈴木議員は、二〇〇〇年十二月二十五日から二十六日、森首相の親書二通(プーチン大統領あてと、イワノフ安全保障会議書記あて)をもって、モスクワを訪問し、イワノフ書記やロシュコフ外務次官と会談した。森訪ロの日程や、「二島先行返還」論などについて協議した。

 これが対ロ「二元外交」として批判されるなかで、福田官房長官や河野外相は、鈴木訪ロは、「一議員の立場」からのもの、「鈴木氏個人の資格での訪問」と強調した。それから間もない二〇〇一年一月に訪ロした河野外相は、予定されていたプーチン大統領との会談を拒否され、いったんは合意していた森首相の二月訪ロを、一カ月延期されてしまった。

 二〇〇一年三月五日の鈴木・ロシュコフ会談は、このような経過のあとで開かれることとなった。

「二島返還」論をめぐる日ロ外交略年表
1951・9・8 「サンフランシスコ平和条約」署名
56・10・19 「日ソ共同宣言」署名
93・10・13 細川・エリツィン会談。領土交渉を四島に限定する「東京宣言」に署名
97・11・2 橋本・エリツィン会談(クラスノヤルスク)。2000年までの平和条約締結で合意
98・4・19 橋本・エリツィン会談(川奈)。橋本首相、「国境画定」案を提示
11・11 小渕首相が首相として25年ぶりの公式訪ロ
2000・4・29 森・プーチン会談(サンクトペテルブルク)
8     鈴木氏、森首相の特使として訪ロ
9・5 森・プーチン会談(東京)。1956年の「日ソ共同宣言」を両国間の合意と確認
11・30 ロシア政府、日ソ共同宣言の歯舞・色丹引き渡し条項は「二島返還で領土問題を最終決着させるという規定だった」との見解を日本政府に伝達
12・25 鈴木氏、森首相の特使として訪ロ。ロシュコフ外務次官らと「二島先行返還」論などで協議
12・26 河野外相、福田官房長官は鈴木氏の訪問を「一議員の立場」「個人の資格」と発言
01・1・16 日ロ外相会談(モスクワ)
2・19 橋本北方担当相、国会で「四島一括返還論を言いつづける」と答弁
3・5 鈴木氏が訪日中のロシュコフ外務次官と会談。共同宣言の有効性を首脳会談の宣言に明記するよう要求
3・25 森・プーチン会談。「イルクーツク宣言」に署名

会談の特徴と問題点について

 1、鈴木議員は、この会談では党総務局長としてロシア側と交渉しており、政府間の交渉とは別に、明白な二重外交、二元外交がやられていたことは、きわめて重大である。文書が物語っているように、鈴木議員は、政府首脳の立場をもくりかえし非難し、自分が対ロ領土交渉を仕切っているかのようなふるまいをしている。

 この席に、東郷欧州局長という外務省側の人物が同席していることも、一議員と結託して、二重外交を外務省幹部がすすめていたという点で、異常きわまりないことである。

 2、会談の内容としては、つぎの点が重大である。

 第一に、鈴木議員が、「四島一括返還」論にたった日本政府首脳の一連の発言を非難し、自分を「二島先行返還」論の「柔軟」な立場にたつ政治家として売り込み、これこそが日本政府の正式の立場であると説明していることである。

 鈴木氏は会談のなかで、ロシアの指導者たちに「疑念」や「怒り」を引き起こした発言をする人や、「日本には冷戦時代の言葉を使って領土問題の議論をする人」もいるが、「自分や東郷局長は弾力的な姿勢でロシアとの関係を考えていきたいという立場」だとしている。

 ここで「冷戦時代の言葉を使って領土問題の議論」などとして、やり玉にあげられているのは、つぎのような発言であると考えられる。

 二〇〇〇年十二月二十六日の河野外相と福田官房長官の発言。鈴木訪ロは「一議員の立場」によるもの(福田)、「個人の資格で訪ロされた。領土交渉はしていないと承知しており、二元外交とは、まったく思っていない」(河野)などの発言である(「朝日」十二月二十七日付)。

 二〇〇一年二月十九日の橋本龍太郎・北方担当大臣の発言。橋本氏は、衆院予算委員会で、「四島一括返還論というものを日本はロシア側に言い続ける」とのべた。これに対して、鈴木議員は、「橋本大臣は、森首相を横において、こういう答弁をしている。ロシア側は、日本は冷戦時代に戻ったのかと言っている。由々しきことだ」と非難している(「朝日」二月二十三日付)。三月五日の鈴木・ロシュコフ会談でも、鈴木議員は、ロシュコフ次官に、自分が所属する派閥の指導者であっても、「駄目なことは駄目」と橋本氏に「意見をした」といばってみせ、自分を売り込んでいる。

 第二に、三月五日の鈴木・ロシュコフ会談の最大の特徴は、鈴木議員が再三にわたって、日ロ首脳のイルクーツク会談では、一九五六年の日ソ共同宣言の有効性を共同文書に「明記」せよと要求していることである。

 しかし、日ソ共同宣言の歯舞・色丹の引き渡し条項は「二島返還で領土問題を最終決着させるという規定だった」とロシア側が正式に伝えてきた状況下で、共同宣言への「明記」を主張することは、このロシア側の立場を認めることになる。現に、鈴木議員は、会談のなかで、まず歯舞と色丹を渡せと主張している。鈴木議員は、「国後、択捉については、継続的に協議をおこなって結論を出す」といっているが、二島での最終決着という結論が伝えられている状況下でのこの発言は、形をつけるためのつけたしにすぎない。鈴木議員の発言は、「ロシアにとって、たいして必要ないものから返してほしい」という、日本の主権でなく、ロシアの事情を優先させたきわめて卑屈なものである。

 3、三月五日の会談での協議内容は、現実に三月二十五日におこなわれた森・プーチン会談の「イルクーツク宣言」に盛り込まれる結果となった。

 とくに、「イルクーツク宣言」が、一九五六年の「日ソ共同宣言」を、「両国間の外交関係の回復後の平和条約締結に関する交渉のプロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認した」ことは、重大である。「日ソ共同宣言」では、歯舞、色丹の日本への「引き渡し」について、両国間の「平和条約が締結された後」と明記されている。これを「基本的な法的文書」として扱うことは、日本側にとっては、歯舞、色丹の主権回復を無条件にはかる道を閉ざす意味をもつ。それはまた、ロシア側には、歯舞、色丹の返還を領土問題の終着駅にしようとする思惑に有力な根拠をあたえることになる。

 4、鈴木議員と外務省の一部幹部が、外務大臣も、官房長官も知らないところで、こうした二重外交をやっていたこと、そして森・プーチン会談での合意は、鈴木議員らがすすめた裏の会談がつけた道筋でとりむすばれたこと、こうして日本外交がゆがめられ、国益がそこなわれたことは、きわめて重大である。

 小泉首相は、この問題について、関係者の調査をおこない、事実を全面的に明らかにすべきである。また、今回の問題にとどまらず、鈴木議員がロシアとの交渉で何を発言しているかについて、事実を調査し、明らかにすべきである。

 また、この問題とのかかわりでも、鈴木議員の証人喚問の必要性は、いっそう切実なものとなった。

どういう正当な根拠をもって領土返還をせまるのかを、あらためて明瞭にせよ

 さらに指摘しなければならないのは、こうした問題がおこる根底には、歴代自民党政府の領土交渉の行き詰まりがある、という問題である。

 自民党は言葉のうえでは、領土問題の重視をいうが、この数十年来、日本の領土返還要求の正当性を、国際政治の舞台で、またロシア(以前はソ連)の国民の前で、明確な国際法上の根拠をあげて訴えてきたことは、一度もなかった。

 日本政府が領土問題で、足場をもてないことの根本には、日本政府が、一九五一年のサンフランシスコ平和条約の「千島列島放棄」条項で自分の手をしばる態度をいまだに取りつづけ、「千島放棄」の枠内での領土返還要求を基本方針にしているところにある。

 政府は、国会では、「国後、択捉は、千島列島ではない。だから返還せよ」というのが、日本政府の立場だと説明しているが、これは、サンフランシスコ会議と条約締結の経緯にてらしても、国際政治の舞台ではもちろん、対ロシア(以前はソ連)の領土交渉で通用する議論ではない。サンフランシスコ会議で日本政府が発言したのは、「歯舞、色丹は千島には含まれない」ということだけであり、条約を批准した国会では、日本政府は、放棄した千島列島には、国後、択捉が含まれることを、明確に答弁している。

 一九九〇年代以降も、自民党政府は、国際的に通用する道理をもたないまま、無原則的に領土問題に対処してきた。そのことが、この問題にいっそう深刻なゆがみと後退をもたらすことになった。二〇〇一年三月の森・プーチン会談には、そのゆがみがきわめて深刻な形であらわれている。

 この反省にたって、いま求められることは、領土交渉において日本が取るべき立場を、国際的に通用しうる明確な道理と根拠をもって、正々堂々と押し出すことである。

 日ロ領土問題の根本には、「領土不拡大」という第二次世界大戦の戦後処理の原則に反して、ヤルタ会談での密約にもとづいて、スターリンが千島列島を不法に占領したこと、そして一九五一年のサンフランシスコ平和条約がむすばれたさいに、日本がこの条約の領土条項で、「千島列島の放棄」を宣言してしまったことにある。

 わが党は、この歴史的な経緯をふまえ、第二次世界大戦の戦後処理の不公正をただし、日本の歴史的な領土の返還を要求する、という立場から、領土問題の公正な解決を主張し、ソ連解体以前には、政権党であったソ連共産党と、この立場にたった交渉をおこなってきた。

 そのさい、わが党は、返還要求の対象としては、つぎのことを重視してきた。

 (1)日本の歴史的な領土は、十九世紀後半における日本とロシアのあいだでの到達点(樺太・千島交換条約)で画定されるべきであり、国後、択捉の南千島だけでなく、占守島にいたる北千島もふくむ千島列島の全体が、返還要求の対象となる日本の歴史的な領土であること。

 (2)歯舞、色丹は、もともと北海道の一部であって、ヤルタ密約やサンフランシスコ条約でいう「千島列島」に属さないものであり、無条件に日本の主権を回復すべき地域であること。

 以上が、領土問題にのぞむ、わが党の基本的な立場である。

 政府にたいしても、今回明らかになった領土交渉の混迷とその根源を反省し、どういう道理と根拠をもって領土交渉にのぞむのかを、あらためて明瞭(めいりょう)にすること、密室の交渉ではなく、国際政治の舞台でも、ロシアをふくむ世界の世論にたいしても、道理をもって訴える堂々の交渉姿勢に転換することを、強く求めるものである。


 サンフランシスコ平和条約第二条C項(一九五一年)
 日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

 日ソ共同宣言第九項(一九五六年)から
 ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞群島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

 イルクーツク宣言(二〇〇一年三月二十五日)から
 一九五六年の日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言が、両国間の外交関係の回復後の平和条約締結に関する交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認した。

 


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