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日本共産党

21世紀を展望して

国際交流のなかで、日本共産党の政策と理論を見る

不破哲三さんに聞く

聞き手:山口富男政策委員長代理、足立正恒『前衛』編集長

 2001年1月3日(水)「しんぶん赤旗」


海外代表がみた日本共産党の活動と路線

 不破 二十一世紀、あけましておめでとうございます。

 山口、足立 おめでとうございます。

各地での党活動の報告に興味津々

 山口 昨年十一月の第二十二回党大会は、二十世紀を総括して二十一世紀を展望するという壮大な大会でしたが、国際面でも、多くの海外代表が出席して、たいへん豊かな国際交流の場となりました。

 足立 大会の模様はCS通信でそのまま全国に放映されていて、私は全国から寄せられる意見をまとめる仕事をしていましたが、海外の代表があれだけ多数参加したことに、非常な驚きと感動をこめた感想が多くありました。

 山口 不破さんは大会中、外国から来られた方がたと毎日のように話し合っていましたね。どういう点に関心と興味が向けられていましたか。

 不破 大会中に、十一の代表団と会談しましたし、終わった日の夕食会ではほかの方がたとも話し合いましたが、日本共産党の活動、路線、理論にたいする関心には、これまで以上に深いものがありましたね。

 まず大会で各代議員が口々に語る党活動への興味がたいへんなものでした。南アフリカの共産党は政権与党なんですが、「あなた方は野党だが、地方からの発言を聞いていると、まるで政権党のような活動をしている。その経験の交流をぜひやりたい」(マーティンス中央委員)と言うのです。アメリカの代表は労働組合の幹部でしたが、「アメリカでは政治というとすぐ大統領選挙のような上の方に目がむいてしまう。日本に来て、地方政治の舞台での活動の重要性がよくわかった。帰ったらこの教訓を生かすつもりだ」(タウンゼント氏)という。また、多くの代表が、党員の拡大や読者の拡大が日常不断の活動になっていて、それが大会で直接の話題になるということに、心をうたれたようでした。

 宗教者の党員が、自分の宗教的な立場と党活動の結びつきを語り、党規約の問題まで堂々と論じた発言は、もう圧倒的な反響をよびましたね。ある代表が「彼は席に座っている姿も輝いて見えた」と言いましたので、ご当人に会ったとき、それを紹介したら、「頭が光っているだけですよ」(笑い)。

自主独立―― “ソ連の崩壊を活力の源にしている”

 不破 同時に、こういう党活動をささえ、その基本になっている日本共産党の路線そのものにも、非常に深いところで関心が寄せられていましたね。

 足立 主にどんな点ですか。

 不破 とくに印象的だったことを、まとめて言いますと、まず第一は、自主独立の問題です。以前だったら、ソ連などの大国の横暴(大国主義、覇権主義)に正面から立ち向かい、これを打ち破ってきたたたかいに大きな関心が寄せられたものです。ソ連が崩壊したいまでは、日本共産党がそのソ連をどう見ているか、ソ連社会をどう位置づけているかという点に興味をむけ、そこから現代的な教訓をくみとるという意見が多く聞かれました。

 たとえば、チェコ・モラビア共産党のランズドルフ副議長と話しましたら、まず「あなたがたは、ソ連による“真理の独占”を打破した」といきなり言うのです。「ソ連による真理の独占」とは、ソ連が、自分たちの行動、政策、理論を絶対のものとして、それを他国や各国の共産党に押しつけ、支配しようとした――その大国主義、干渉主義のことなんです。それとたたかって、これを打ち破ったところに、日本共産党のなによりの国際的な功績がある、短い簡潔な言葉だが、中身はそういう深い評価の言葉でした。私が「あなた方の一九六八年の運動も同じ流れに属していた」と応じましたら、「そうなんです」と、チェコの党が一九二〇年代の創立のころからゴルバチョフ時代にいたるまで、くりかえしソ連の干渉による被害をうけてきた歴史を語りました。自分たち自身のそういう経験と立場からの発言だったんですね。

 そのあとで、ロシア連邦共産党の代表(イワンチェンコ幹部会委員)と会いました。ロシアの党とは、この大会を機会にはじめて公式の関係をもったのですが、発言の最初から、“自分たちがソ連共産党の覇権主義といかに絶縁しているか”を力説するのです。私はロシア語はわからないのですが、話のはじめに「ゲゲモニズム」という単語が聞こえてきたから、ああ、覇権主義(ヘゲモニー主義)の話だな、と推察しました。わが党がどんな覇権主義も許さないできた自主独立の党だということは、よく知っていたわけですよ。

 同行した通訳の人から聞いたのですが、ドイツ共産党のシュテア議長の感想も興味がありました。「日本共産党がどうして大衆の間にこれだけの根を張っているのか知りたい」として、「ソ連などの崩壊による悲壮さがまったくない。それどころか、逆にそのことを活力の源泉にしていることに、強い印象をうけた。まったく驚くべきことだ」と言っていたというのです。

 みなさん、なかなか新鮮な目で私たちの路線と活動ぶりを見てくれた、と思います。

 山口 実にいいところを見ているんですね。覇権主義の問題は、ソ連が崩壊したことでおしまいということではなく、二十世紀をふりかえって二十一世紀を展望するときに、避けて通れない問題ですからね。

政策路線―― “現実政治への接近の仕方に興味がある”

 不破 海外代表の関心が集中した点として、第二にあげたいのは、私たちが、国内で展開している政治路線、政策問題でした。

 もともと、高度に発達した資本主義国である日本で、民主主義革命の路線をとっているということ自体が、ほかの資本主義国の共産党から見ると、かなり珍しいことだったんですよ。ソ連の影響もあって、たとえば、ヨーロッパでは、社会主義革命論が当たり前という風潮でしたからね。そこで、以前から、日本共産党の民主主義革命論、それにもとづく民主的改革の路線には興味津々という向きが強かったのですが、今回は、その興味が、自分たちの経験とも照らし合わせながら、いよいよ切実で深いものになってきたように感じました。

 たとえば、今度の大会では、自衛隊の段階的解消の問題が、大きな焦点の一つになりましたが、これは、日本独特の問題なんです。憲法第九条のような、戦力の保持を禁止するという憲法をもっている国は、主だった国ぐにのなかでは、日本のほかにありませんからね。二十一世紀に常備軍をもたない国づくりをめざす、というのも、まさに日本だからこそ、という方針です。だから、この問題は、海外の方がたの関心をあまり引かないんじゃないかと予想していたのですが、実際はまったく違っていました。

 スペイン共産党の代表(ナバスクエス書記局員)は、「憲法第九条、自衛隊の問題に関心がある。第九条の完全実施という党の立場と日本の政治との現実の矛盾を、どういう方向で解決するのか、それを議論している様子が非常に興味深かった」というのです。

 フランス共産党の代表(シレラ執行委員・国際委員会責任者)も、「日本共産党は、安全保障政策で、自衛隊解消という最終目標を堅持しながら、それにいたるプロセス(過程)を、国民の意識や現実政治との関係で具体化している。これは難しいけれど、大事なことだ」という感想でした。

 つまり、わが党の民主的改革論が、現実政治と切り結びながら具体化され、そこで国民の支持を政権党と争う活動が展開されている、そこに一致して目を向けているわけです。ドイツ共産党の代表は、そのことを「日本社会が変化して自民党政治は破裂する間際にある。そのなかで新しい問題が次々と出てくるけれども、みなさんの党はそのすべてに回答を出しているようだ」と語っていましたし、ドイツのもう一つの党・民主的社会主義党の代表(エッティンガー国際部副部長)も、「日本共産党はいろんな問題にたいして、原則的な立場を踏まえながら、いかにして国民の多数派の支持をえるかという観点から、問題に接近している。この接近の仕方には、学ぶべきところが多い」と述べていました。

 山口 民主主義革命の路線にもとづく民主的改革の方針、自衛隊問題などでのその具体化。私たちが現実政治にとりくむ接近の仕方そのものが、大きな関心と共感を呼んだのですね。イギリス共産党の代表(コイル国際部長)が帰国してから、機関紙のモーニングスターに寄せた報告を読みましたら、やはり、自衛隊問題を大きくとりあげていました。

日本共産党の社会主義論も関心の的に

 不破 関心が集まった問題の第三点は、私たちの社会主義論にありました。

 それには、それだけの理由がありました。私たちは、六年前の第二十回党大会で、崩壊したソ連社会は何だったのかという問題を正面からとりあげ、ソ連社会は、社会保障など個々には評価できる点があったとしても、全体としては、人間への抑圧を特質とする抑圧型の社会であり、社会主義ともそれへの過渡期とも無縁の社会だったという結論を明確にしました。ソ連社会の問題点はいろいろ議論されていますが、世界の諸党のなかで、ここまで明確に言い切っている党は、ほかにはほとんどないのです。

 その日本共産党が、将来、どんな社会主義をめざそうとしているのか。この問題には、資本主義諸国の党だけではなく、現に社会主義をめざしている党からも、たいへん強い関心が寄せられました。

 ベトナムの代表(政治局員・経済委員長)は、経済問題の責任者の立場にいる人でしたが、日本共産党の大会が、ベトナムが現在の経済建設の基本方針としている「ドイモイ(刷新)」政策を、レーニンの「新経済政策」と共通するものとして評価したことに、くりかえし感謝の言葉を述べていました。

 ベトナム自身、「ドイモイ」を開始するまでには、レーニンの「新経済政策」などの研究を大いにやり、理論的な足場もかためながら進めてきたわけですね。これは、九九年のベトナム訪問のさいにも話し合ってきたことですが、日本共産党がその点を的確に評価していることの共感的な発言だと思います。

 中国の代表(李揚・中央対外連絡部秘書長)も、社会主義の問題で交流したいと、何度も語っていました。その発言を聞いて、考えてみたのですが、中国は、自分自身の模索のなかから、「社会主義市場経済」という今日の路線に到達して、その道を進んでいる。しかし、この道は、いままでどの国も通ったことのない、いわば未踏の道なんですね。しかも、「社会主義市場経済」を通じて、資本主義をのりこえた社会をつくってゆくことが目標ですが、中国自身は、のりこえるべき資本主義を本格的には経験していない。それだけに、高度に発達した資本主義国の日本で、同じように、経済的には市場経済を通じて社会主義的な未来を展望している日本共産党が、どのような社会主義論をきずきあげるか、という点には、大きな関心があるのではないでしょうか。

 私たちは、大会決議で、二十一世紀を、世界的に社会主義の問題が熟してゆく世紀になるだろうと規定しましたが、それだけに、ここには、世界的な交流の内容となる大事な、そして非常に興味ある点があるな、と思いました。

 足立 中国の代表は、「しんぶん赤旗」でも、「日本共産党が、二十一世紀を展望して社会主義の位置づけを明確にしたのは、とても重要であり、私たちも元気づけられています」と語っていました(十二月四日付)。大会が明らかにしたこの展望、世界が資本主義をのりこえて進む時代になるだろうという展望は、私たちも非常に印象深く受けとめた点です。

インドの党との理論的なふれあい

 不破 いま路線にかかわる問題として三つの点をあげましたが、もう一つ、私が紹介したいのは、路線のおおもとにかかわる問題として、わが党の理論的な展開への興味と関心が非常に大きかったということです。

 この点で、たいへん印象的でもあり、うれしくもあったのは、インド共産党(マルクス主義)の代表、スルジート書記長の発言でした。

 足立 スルジートさんは、「しんぶん赤旗」でも、不破さんとの以前の会談のことにふれながら、「過去のことについていえば、私たちはソ連や中国の党から干渉を受けてきた歴史がある。それにたいして、インドの党として的確な対応をしてきたかどうか。その点ではインドの党としてのあやまりも含めて、総括しています」と話していましたね(十二月十日付)。ずいぶん率直な、自己分析の発言だと感心したのですが。

左翼政権のもと、三つの州で一億の人びとが生活している

 不破 インド共産党(マルクス主義)と私たちの党のあいだには、ずいぶん長い交流の歴史があるのですよ。私は、一九八八年にはじめて訪問して実地をみてきたのですが、この党は、西ベンガル、トリプラ、ケララという三つの州で左翼政権をつくり、その大黒柱になっている党です。前の訪問の時は、三つの州の総人口八千万と言っていましたが、今度聞いたら、人口一億に増えていました。

 山口 日本の人口にほぼ匹敵しますね。そこに責任を負う政権党とは、たいへんなものですね。

 不破 トリプラとケララでは政権をとったりとられたりが、この間にもあったのですが、西ベンガルの左翼政権は二十三年も続いていて、実績もすごいのです。たとえば、子どもの問題はインドの大問題で、首都のデリーの街を夜中に歩くと、家のない子どもたちが歩道を埋めるように寝ている、それが普通のことになっていました。ところが、西ベンガルの州都カルカッタにゆきますと、そんな光景はどこにもないのです。それどころか、教育の分野で、ユネスコ(国連教育科学文化機関)からも高く評価されるような成果をあげていました。この対照の鮮やかさは、衝撃的でしたね。

 しかも、左翼政権を樹立するこのたたかいに、ソ連や毛沢東時代の中国が猛烈な攻撃をくわえたのです。当時、中央政府は左翼政権や共産党にたいする野蛮な強圧政策をとっていましたが、ソ連はその中央政府と組んで、左翼政権を攻撃する。中国は、インドの毛沢東派に武装闘争をけしかけるのですが、最大の目標とされたのが西ベンガルの左翼政権の打倒でした。インドの党は、政府・ソ連・毛沢東派の一体になった攻撃を打ち破って、今日、人口一億にもおよぶ左翼政権の実績をつくりあげてきたわけです。

 足立 わが党の自主独立の立場とまったくいっしょじゃないですか。

1988年・インドでの出会い

 不破 そうなんです。ところが、そういう闘争を実際にしていながら、会談をやってみると、理論や路線の面で、なかなか話が通じない、実は十二年前のインド訪問では、そういうもどかしさがあったのです。ソ連や中国・毛沢東派の干渉の攻撃をうけ、それと果敢にたたかってそれをうちやぶる仕事を現にしてきながら、そのことが理論と路線の問題としてきちんと整理されていない、という印象を受けました。だいたい、当時のインドの党の理論的な立場には、「干渉」という見方も「大国主義」「覇権主義」という言葉も、なかったんです。「理論」は、ソ連流のものをあまり吟味しないで使っている、という様子でしたね。

 だから、最後の日に共同コミュニケをつくるときには、表現の一つ一つにおたがいに苦労しました。私は、同じことをやっていても、それを表現する「概念」も「文法」も違っているから、たいへんだと、冗談まじりに話したものでした。

 足立 スルジートさんが語っているのは、そのときの会談のことですね。「不破同志を団長とするみなさんの代表団が八八年にインドを訪問されたとき、私自身が不破同志と会談しました。『資本主義の全般的危機』という規定や、ソ連の大国主義、覇権主義の問題などについてあなたがたの見解を聞きました。その後の会談も含めて、これらの意見交換はとても重要な意味がありました」

 不破 インドの党とは、それまでにも一定の交流がありましたが、つっこんだ会談をやったのは、この時が初めてでした。私自身は、もちろんインドは初訪問だったんです。

 訪問の第一日に、党本部を訪ねて、そこで会談をはじめ、夜はみんなでスルジートさんの自宅に移動して、そこで続けました。本当にヒザをつきあわせての話し合いでした。スルジートさんのいう「全般的危機」の規定というのは、そこで日本共産党の理論的な立場への質問として、まっさきに飛び出してきたものだったんです。

 山口 「全般的危機」の規定は、一九八五年の第十七回党大会で綱領から削除したものでしたね。

 不破 世界の共産党のあいだで、「世界資本主義の全般的危機は、いよいよ深まっている」というのが、世界情勢を分析するさいのいわば決まり文句にされる、という時期が、かなり長くありました。私たちは、八五年の大会でこの問題を分析して、その規定の根本に、資本主義を「危機一本やり」で見るという誤りと同時に、ソ連が世界を動かしているというソ連第一主義の世界論があることもはっきりさせて、この規定を削除したのでした。私自身、この問題で本を一冊書きましたよ(『「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算』一九八八年)。

 その話が、インドの党との会談のなかで、いきなり出てきたのには、驚きました。日本共産党のとった立場も聞こえていて、おそらくそのことの是非についてかなり議論していた最中だったのだと思いました。

12年間の交流の歴史がもつ重み

 不破 今度、スルジートさんと会ったら、最初から八八年のその会談の続きのような話になるのです。あのときは、意見の違うことも多くあるなかで、本当に率直な意見のぶつけあいをしたものですが、その時の意見交換を重視して、いまでもその論点まで鮮明におぼえてくれている、そして日本共産党が理論的な立場をその後どう展開してきているかも、実に注意深く見守ってくれていること、そして十二年前に論争しあった点をふくめ、一致点の大きな広がりが確認されたこと、話し合いをしながら、これらの点に強い感動をおぼえました。

 スルジートさん自身がいうように、それから十二年たったいま、共通点がさらに大きく広がってきた、私流にいえば、「用語」や「文法」もあまり気にしないでいいようになったのは、実にうれしいことですね。

 最近発表されたアメリカ政府の報告でも、インドは、中国とともに、二十一世紀のアジア経済の中心をになう国として、位置づけられているでしょう。それだけに、インドの党との触れ合いは、今後とも大事にしてゆきたいと思っています。

マルクス、エンゲルス研究の国際的な反響

昨年の新春インタビューは、イギリスとドイツで転載された

 山口 理論のことでいいますと、マルクス、エンゲルスについての不破さんの研究にも、国際的な反響がすでにかなり出ているようですね。

 不破 去年の「赤旗」新春インタビュー「世紀の転換点に立って」の英語版が、「ジャパン・プレス」を通じて、世界に流されましたから、多くはそれを読んでの反響だと思います。

 山口 イギリス共産党が、討論機関誌『コミュニスト・レビュー』の夏季号に、このインタビューを全文載せています。ドイツでは、民主的社会主義党のモドロウ氏とドイツ共産党のゾーン氏の共同編集という形で『大きな飛躍へ――日本共産党の政策の概観』という本を出版して、まず日本共産党の簡単な歴史、綱領と規約をまとめ、そのあとで、「日本共産党の政策にとっての理論的活動の意味」という表題をつけて、不破さんの『エンゲルスと「資本論」』の第一章とインタビュー「世紀の転換点に立って」の翻訳を、収録しています。こうした構成にも、ドイツの二つの党が、わが党の理論活動に、路線や活動をささえるものとして、大きく関心を寄せていることが、分かるように思います。

 不破 この本は、最後のページに、連絡先として、日本共産党本部の住所、電話、ファクスまで全部書いてある。読者にも、直接の交流を求めているという感じですよ。(笑い

 足立 チェコ・モラビア共産党の代表も、不破さんの研究について、「とりわけソ連が歪曲(わいきょく)したマルクス、エンゲルスの業績を救い出し、正しい姿にするという役割を果たしました」と述べていましたね(「しんぶん赤旗」十二月五日付)。

 そして「その中から、完全な民主主義からこそ社会主義が生まれるということを展望している。民主的な手法で社会の発展的変革をめざすことが重要だと思います。そういうことが、世界的な共産主義運動の議論のなかでもっと提起されるべきです」と続けていましたから、やはり「世紀の転換点に立って」を読んでの意見でしょうね。

マルクス、エンゲルス研究のソ連式の歪曲とは…

 不破 「ソ連が歪曲したマルクス、エンゲルスの業績を救いだした」というのは、やはり、ソ連による“真理の独占”体制に長くいためつけられてきたチェコの党ならではの感想だと思いました。私自身は、とくにそういう問題意識をもって書いてきたというわけではないのですが、ソ連時代のマルクス、エンゲルス研究というものには、独特の有害な“ソ連的特質”が、かなり共通してありましたからね。

 私なりにその有害さをまとめてみると、大きな歪曲として、つぎの三点を指摘する必要があると思います。

 第一は、マルクス、エンゲルスの学説を、歴史のなかで発展的にみないこと、これを、動かしがたい“真理”をまとめあげた教科書のように扱うことです。マルクス自身、不断の研究、現実世界との不断の切り結びのなかで、自分たちの理論の発展を最後まで追究していたのですから、こんな見方は、マルクスの理論から、かんじんの《を失わせることでした。

 第二は、マルクス、エンゲルスは十九世紀の理論だとし、レーニンこそが二十世紀の現代的な理論だと意義づけて、事実上、マルクス、エンゲルスを古くなった過去の理論扱いすることです。「マルクス・レーニン主義」という用語にも、そういう気持ちが色濃くこめられていました。

 第三は、マルクス、エンゲルスからレーニンにいたるすべてを、もっぱら、ソ連型の革命とソ連型の社会を「正当化」する理論的な道具だてとして使うことです。これは、科学的社会主義から、真理を真理として追究する科学の本来の精神を追放してしまうことにほかなりません。

 私は、『エンゲルスと「資本論」』を書いたときにも、いま執筆中の『レーニンと「資本論」』を書くときにも、すべてを歴史のなかにおき、理論の歴史的な発展を追究するという姿勢をつらぬいたのですが、そうすると、ソ連流のマルクス論、レーニン論の歪曲ぶりが、おのずから明らかになってくるのですね。

 足立 たしかに、学説を発展的に見ないというのは、ソ連型理論の特徴でしたし、その影響は日本でも広くありました。私自身、不破さんの研究を学ぶなかで、発見がたくさんありました。あ、こういうふうに読むのかというのが、率直な感想です。

 山口 ソ連流の研究の仕方にとらわれてしまうと、科学的社会主義の事業を二十一世紀に豊かに発展させるということは、とてもできないと思います。私自身をふりかえってみると、本格的に科学的社会主義の勉強をした時期というのは、ちょうど一九七六年、不破さんが論文「科学的社会主義と執権問題――マルクス、エンゲルス研究」を発表した時期なんです。いま『エンゲルスと「資本論」』などのなかで、マルクス、エンゲルスをそれぞれの歴史のなかで見るように、意識的に心がけてきた、という話がありましたが、これは、不破さんが以前から強調してきた観点だった、と思うんです。それが、今度の長期研究のなかで、私たちにもつかみやすい形で、方法論とその意義が述べられた。これが、今回外国から来た方がたが、私たちの理論活動に特別に注意をむけていることの、一つの背景になっているように感じました。

『資本論』を歴史のなかで読む

『エンゲルスと「資本論」』から

『資本論』にかかわる3つの歴史を研究した

 不破 実は、この研究は、エンゲルスの場合もレーニンの場合も、最初から構想や方法論をはっきりたてて始めた研究ではなかったんですよ。『エンゲルスと「資本論」』にしても、最初は、数回の連載で、『資本論』へのエンゲルスの貢献ぶりをスケッチ的に概観するつもりでした。ところが、実際にとりかかってみると、エンゲルスの貢献を軸にしながら、『資本論』の歴史的な形成と発展の姿に興味をひかれて、あそこまで行ってしまったのです。

 書き終わってふりかえると、『資本論』を歴史的に見るという点では、研究の対象として、三つの歴史がありました。

 一つは、マルクスが、過去の経済学の膨大な成果を自分のものにしながら、独自の科学的な経済学をつくりあげ、『資本論』全三部を書きあげてゆく歴史です。

 二つ目は、マルクスが書き残した原稿をもとに、エンゲルスが、どのように苦労して『資本論』の第二部、第三部を編集し、その発行にいたったかという歴史。

 三つ目は、マルクスが『資本論』のその後の展開を、どう準備したかの歴史です。『資本論』の第三部の原稿は、第一部を刊行する前にすでに書きあげてあったのですが、マルクスは、それに満足しないで、これをより充実したものに発展させようとして、一八七〇年代以後に、信用論と農業論・土地所有論を中心に膨大な研究をおこないます。この研究は、結局、書かれないままに終わったのですが、研究のあとをたどると、マルクスが『資本論』をどのように発展させるつもりだったのか、おおよその推測ができる。

 この三つの歴史という角度から眺めてみると、『資本論』は、それ自体が非常に発展的な内容をもっているんです。『資本論』は、社会主義の事業を科学的に基礎づけた歴史的な大著ですが、同時に、科学的社会主義の不断に発展する歴史のなかでの歴史的な達成であって、巨大ではあるが、ここで理論が完結する最終の終着駅では決してない。いま見たように、マルクス自身がそういう態度をとりませんでしたからね。

 山口 不破さんの研究には、三つの歴史のそれぞれに、新鮮な問題提起がふんだんに盛り込まれていた、と思います。三つ目の、マルクスが『資本論』第三部をより現代的、より包括的なものに発展させる構想をもっていたことについて、不破さんは、この構想を「七〇年代プラン」と名づけているのですが、この問題意識は、経済学者のあいだでも反響を呼んでますよ。そこに手をつけて本格的な研究をやろうという人は、まだ出ていませんが。

マルクスとエンゲルスは、理論家としては対照的なタイプ

 足立 それにしても、エンゲルスの協力ぶりには、本当に驚かされますね。一般的な形では知られていることなんですが、不破さんの研究で、その全過程が生き生きとあとづけられました。

 不破 マルクスとエンゲルスというのは、まったくえがたい組み合わせだったと思いますね。理論活動への取り組み方も、それぞれの個性が大ちがいなのです。マルクスは、研究をはじめたら、とことん自分の胸におちるところまで問題をとらえつくさないと、研究の成果を発表しない。だから、『資本論』の第二部、第三部にしても、一八六〇年代に書きあげてあった草稿を、エンゲルスがマルクスの死後に読んで、「経済学の全体を変革するようなすごい発見を、二十年以上も前にやっていて、なぜだまっていたのか」と嘆息をもらす場面がありました。マルクスは、こうした徹底研究派なんです。

 これにたいして、エンゲルスは、速筆が特徴でした。それをよく表しているのは、『家族、私有財産および国家の起源』です。これは、マルクスの死後、彼の遺稿を調べている最中、エンゲルスが、アメリカの古代史家モーガンの『古代社会』についてのマルクスのノートを、たまたま発見したところから始まったものです。エンゲルスは、そのときには、モーガンの本を見たことはなかった。しかし、マルクスのノートを見て、その内容にすっかり感心し、マルクスの遺志を生かさなければ、という思いで、『家族、私有財産および国家の起源』の執筆にとりかかるのです。マルクスのノートを発見したのが、一八八四年二月、モーガンの著作を手に入れたのが翌三月の下旬、『家族、私有財産および国家の起源』を書きあげたのが、五月の末ですから、二カ月ほどの短期間にあの大著を書きあげてしまったのです。マルクスには絶対にできない離れ業でした。

 若いころ、ドイツ革命のなかで、いっしょに「新ライン新聞」の編集にあたったときも、マルクスは筆がおそくて引きうけた論説がなかなかできない、ところがエンゲルスはさらさらと書きまくる。“エンゲルスときたら、昼でも夜でもいつでも仕事ができ、筆も頭の回転もとんでもなく早い”というマルクスの感嘆の言葉が残されているぐらいです。まったくタイプが違うんですね。

 そのエンゲルスが、マルクスが書きのこした『資本論』第二部、第三部の編集には、足かけ十二年もの歳月をかけて取り組んだのですから(笑い)、とりわけ敬意を表したいですね。

『レーニンと「資本論」』をめぐって

レーニンを、レーニン自身の歴史のなかで見る

 山口 次の『レーニンと「資本論」』にゆきましょうか。本は第六巻まで出まして、雑誌『経済』の連載も、いよいよ最後の局面に入っているようですが。

 不破 この研究も、最初は、こんなに膨大なものになることは予想していなかったのです。『エンゲルスと「資本論」』を書いてゆくと、マルクス、エンゲルスの仕事とレーニンの仕事とのあいだの接点が非常に多いんですよ。二人がやりのこしたところをレーニンがひきついだり、レーニンの研究につながるものが、二人の仕事のなかにあったり。そのあたりをまとめて研究したいと思ってはじめた仕事でしたが、科学的社会主義の理論は、経済と政治が不可分だというところに特徴がありましてね(笑い)、研究の領域がだんだんと広がっていった。とくに十月革命後は、レーニンが『資本論』についてあまり語らなくなりますから、それに対応して、『資本論』が時々しか出てこない『レーニンと「資本論」』になったりしました。連載は、いま一九二一〜二三年というレーニンの最後の時期を扱っていまして、いまのところ、『経済』の四月号で終わる予定になっています。

 研究をここまですすめて、いろいろな思いがありますが、一つの大きな感想は、レーニンはマルクス、エンゲルスの徹底した学徒だった、あるいは学徒たらんとした、そのことですね。ソ連流の、レーニン主義が現代のマルクス主義で、マルクス、エンゲルスは古くなったなどという考えは、当のレーニンにはみじんもないのです。マルクス、エンゲルスの到達した理論的な成果をいかに学びとるか、それを最大の指針にして、ロシア社会、ロシア革命、また現代の世界をいかに分析するか、そのことを自分の理論的信念にしていた。

 それでマルクス、エンゲルスのあとをつぐ理論的な達成を多くの分野で記録しているわけですが、では、そのレーニンのマルクス、エンゲルス解釈が絶対かというと、そうではないのです。やはりそこには歴史的な制約と限界をまぬがれえないものがあります。若いころの経済学研究について、私がレーニンの「勇み足」と書いたら、だいぶ反響を呼んだのですが、そういうことは結構あるのです。そこをきちんと見ないと、レーニンから受け継ぐべき業績も正しく評価できないと思います。そういう目で、“レーニンを、レーニン自身の歴史のなかで見る”というのが、この研究での私の合言葉でした。

『国家と革命』批判には国際的にも関心が集中

 足立 レーニンの場合は、われわれの時代に近いだけに、ロシアの運動だけでなく、国際的な社会進歩の事業にも、非常に大きな影響をあたえてきました。それだけに、今回、『レーニンと「資本論」』で、レーニンの理論の“功罪”をていねいに明らかにした意義はたいへん大きい、そう思いながら読んできました。不破さんは、この研究について、“二十世紀におきたことは、二十世紀のあいだに総括しておく責任がある”とよく話していますが、これは、二十一世紀にわれわれが日本で社会進歩の運動をすすめてゆくうえで、あるいは世界の運動にとっても、どうしても必要な総括ですね。

 とくに、『国家と革命』の理論的な弱点を、マルクス、エンゲルスの国家論、革命論の全体像をつかんだうえで分析したことは、衝撃的でした。

 不破 マルクス、エンゲルスは、十九世紀の前半、普通選挙権とか国民主権の議会制度などがヨーロッパのどこにもない時代に運動をはじめたのですが、その最初のときから、民主主義の議会制度をかちとることを大きな政治目標にしていましたし、議会の多数をえて革命に向かうという流れが、革命論、国家論のなかに、一つの太い流れとしてずっとあるのです。それが、七〇年代以後、選挙権や議会制度の各国での発展とともに、次第にヨーロッパの多くの国を視野にいれた大きな流れになってゆく。ところが、それが、レーニンの視野にはまったく入らなかったのです。そして、議会的な道とか、議会をもった民主共和制を頭から敵視する立場を、『国家と革命』で理論化してしまった。これは、レーニンの理論活動のなかでは、致命的な大問題でした。

 レーニンが、そういう間違った立場に立った背景には、情勢の面からの要因もたしかにありました。ロシアが、ツァーリの専制制度の国で、議会的な道がそもそも不可能だったこと、世界的にも最初の世界戦争の時代を迎え、民主共和国でも武力がむきだしの形で政治と社会を支配する状況が広がったこと、社会主義運動のなかでも、議会を舞台にした活動で成功をおさめてきたドイツなどの社会民主党が「祖国擁護」、戦争支持の陣営に転落してしまったことなどなど。

 しかし、こういう理論上の誤りは、原因を情勢だけに解消してすむものではありません。私は、レーニンの誤りの理論上の根源として、この分野でのマルクス、エンゲルスの豊かな理論的遺産に、レーニンがほとんど触れる機会がなく、そのために、自分がまとめた見地が、マルクス、エンゲルスの国家論、革命論の真髄だと、思い込んでいたことをあげたのです。

 レーニンは、『国家と革命』のなかで、時代的な順序を追って、マルクスの国家論を追跡し、それで自分の結論を証明しているのですが、いま明らかになっているマルクス、エンゲルスの発言の全体を、レーニンと同じように、時代的な順序で追跡してみますと、変革の議会的な道を一つの重要な方向として探究する二人の考えが、筋道だてて浮き彫りになってきて、レーニンがなにを見落としたのかが、よく分かるのです。

 さきほど、チェコ・モラビア共産党の代表が、私の研究について、“ソ連流の歪曲からマルクス、エンゲルスを救いだした”と述べた言葉が紹介されましたが、この代表は、社会主義にむかう民主主義的な道の問題と結びつけてこの発言をしていましたから、やはり注目の眼をこの点にむけていたんだと思います。

 山口 レーニンは、マルクスらの国家論、革命論を「強力革命」一色でぬりつぶしちゃったわけで、その結論が世界の運動にあたえた影響は非常に大きいものがありました。それだけに、不破さんの研究を紹介した昨年の新春インタビューが国際的な関心を呼んだ中心点が、『国家と革命』への歴史的な分析だったんじゃないかという指摘は、その通りだと思います。

レーニンの「夜明け前」と「夜明け」以後と

 山口 『国家と革命』のあとの連載研究ですが、十月革命以後、まず干渉戦争と戦時共産主義の時期がとりあげられて、その分が本では第六巻にまとめられました。不破さんは、「まえがき」のなかで、この時期に「夜明け前」という新しい特徴づけをしていますね。

 不破 これも、はじめからそういう結論があったわけではないんで(笑い)、研究をすすめたあげくの、私の実感でした。

 ロシアが十月革命で、世界で社会主義革命に最初に手をつける国になるというのは、もとからレーニンの予想にあったことではないんですよ。大戦中、スイスに亡命していたころの文章では、社会主義の先陣をつとめるのが西ヨーロッパで、ロシアは、民主主義革命をやりとげたあと、ヨーロッパの援助のもとに社会主義にすすんでゆく、というのが、あらましの構想でした。

 それが思わぬなりゆきで、ロシアが単独で社会主義への道をひらく開拓者の立場にたたされた。しかも、生まれたばかりのロシアの革命政権に、十四カ国からなる干渉軍とそれに支援された反革命軍が戦争をしかけてくるという、最悪の情勢が展開しました。

 そのなかで、レーニンは、国内での経済建設の道をさぐり、世界の革命運動との連携の道をさぐるのですが、「戦時共産主義」と呼ばれた国内建設の政策も、コミンテルンを中心に打ち出された世界の革命運動の戦術論も、政治的な極限状況でのいわば切羽つまっての理論だてという印象が強いのです。革命以前の時期にみられた思慮深い洞察とか、練りに練った理論だてという要素があまりにも少ない。

 しかし、レーニンの活動は、この時期のままで終わらなかったのです。言語に絶する苦闘をへて、最後には人民の多数の支持をかちとって、一九二〇年の秋ごろまでには、ロシア革命をまもりぬき、干渉軍、反革命軍を打ち破ることに成功しました。そして、その結果、社会主義のロシアが、資本主義諸国の網の目のなかで、単独で国家的存立をかちとるという、独特の世界情勢が生まれたのです。それまでは、レーニン自身も、帝国主義者たちの干渉戦争によってロシア革命が一掃されるか、世界革命が勝利して帝国主義を少なくともヨーロッパで打ち倒すか、道は二つに一つだと思い込んでいたのですから、これは、文字通り、だれも予想しえなかった情勢でした。

 それ以後のレーニンの転換には、めざましいものがあって、内政面でも、世界の運動の面でも、見違えるような大胆さで理論的な活力を発揮します。この二つの時期の対照があまりにも鮮やかでしたから、干渉戦争といういちばんつらい時期を扱った第六巻の「まえがき」に、「夜明け前」と書きつけたのですよ。

 山口 十月革命の以後に“二つの時期”があるというのは、これまでのソ連流の研究にはなかったものです。ソ連流では、レーニンの理論的立場はできあがった形で最初からあって、それが時期ごとに具体化されるという話になりますから、歴史も発展もないことになる。ところが、実際には、レーニン自身の理論的、実践的な飛躍がある、それが「夜明け前」なんですね。

 足立 国内的には、そこからネップ(新経済政策)が始まるわけですね。

 不破 いま話した世界情勢の転換について、レーニンが明確な見解を述べるのは、一九二〇年十一月なんですが、これが人間の認識の発展の面白いところで、情勢の新しい特徴をつかんだら、すぐそれに応じての方針の転換が始まるかというと、そうはならないんですよ。「新経済政策」への転換が始まるのは、翌二一年の二月、それも最初はレーニン自身が、市場経済の承認をためらい、いろいろ試行錯誤をくりかえしたあげく、十月になってはじめて市場経済の正面からの承認に踏み切るのです。

 いま「新経済政策」といえば、最大の特徴が市場経済論だということになっているのですが、実際にはそこへゆくまでにもう一つの歴史があった。こういうところに、歴史を具体的に追究してゆく面白さがありますね。

 世界の革命運動についても同じような時間的なズレがあります。レーニンがあらためてこの問題に本腰をいれて取り組むのは、一九二一年六月のコミンテルン第三回大会を準備する過程においてでした。干渉戦争の時期には、革命論で「多数者革命」論を否定するところまでいったレーニンが、新しい情勢のもとでヨーロッパ革命の問題に本腰をいれて取り組んで、「多数者獲得」という方針をあらためて打ち出す、そこから統一戦線の問題など、ヨーロッパ諸国の情勢とかみあった新しい方向が、つぎつぎと展開される。ところが、干渉戦争の時期に育ったコミンテルンや各国の党の幹部が、レーニンの新しい展開になかなかついてゆけないで、コミンテルンの大会でも大論争になるのです。ジノビエフとかブハーリンとか、レーニンといっしょに仕事をしてきたロシアの党の幹部たちも、時には論争の相手側にまわる。それをレーニンが、熱烈な、しかも冷静な道理にみちた演説で説得するのですが、そのあたりを読むと、いわば「夜明け」のあとの激動といった感があります。

 山口 新しい情勢を認識して、それに応じて、国内外で政策の転換をはかる、それにはレーニン自身も一定の時間がかかったが、まわりにいた人たちがそれについていけない。

 不破 最後の時期のレーニンの探究点を、ロシアの党の幹部たちのだれも全面的には理解していなかった。そのことが、レーニンの死後、ロシア革命が崩れ変質してゆく大きな要因の一つとなったと思いました。この問題は、連載の今後の号で、目を向けてゆきたいと思っています。

21世紀の展望と結びつけて

マルクス研究の今後の2つの課題

 足立 『レーニンと「資本論」』のあとは、研究のどんな計画をもっているのですか。

 不破 次は、順序としても、『マルクスと「資本論」』になるところですね。二十一世紀が、資本主義から社会主義への前進が世界的に問題になるというのは、大会決議でうちだした展望ですが、そのことにも関連して、いま二つの大きな問題意識をもっています。

資本主義批判――マルクスには“書かれざる一章”があった?

 不破 一つは、マルクスの資本主義批判をあらためて整理してとらえなおしたい、ということです。いまは『共産党宣言』から百五十年あまり、『資本論』第一巻の公刊から百三十年あまり、社会の姿はすっかり変わってきているのですが、マルクスの資本主義批判は、現代にも生きて通じる内容を豊かにもっています。財界筋の研究所にいる方で、経済が不況の時期を迎えると、「マルクスの『資本論』の一節を思い出す」とよく語る人がいます。それぐらい、資本主義の本質にたいする批判は、現代的なんですね。

 ところが、この資本主義批判に、十分整理されてつかまれているとはいえない面が、まだずいぶんあるように感じています。そこを、洗いなおす作業をやってみたい、ですね。

 とくに強い思いのあるのは、恐慌論です。マルクスの『資本論』には、エンゲルスが舌をまいた経済学上の大発見が無数にふくまれているのですが、なかでももっとも大きな発見に、第二部の再生産論があります。これは、直接的には当時の経済学上の難問――利潤(より正確には剰余価値)の生産を特質とする資本主義の経済が、生産と消費、需要と供給のバランスを保ちながら、存続し運行してゆくことができるか、という問題にこたえたものです。

 だが、これにはもう一つの大事な位置づけがありました。恐慌、不況というのは、このバランスが崩れることで、資本主義経済は、釣り合いのとれた状態から、熱狂的な繁栄(バブル)の状態につきすすみ、恐慌・不況に転落するという循環を、マルクスの時代から今日までくりかえしています。マルクスは、資本主義の経済がなぜバブルと恐慌のくりかえしになるのか、を研究して、再生産論をこの問題にせまる理論的な土台になるものと位置づけていました。

 ところが、『資本論』第二部では、再生産論を恐慌に結びつけるかんじんの分析が、出てこないのです。次の第三部で恐慌を論じるときには、マルクスは、当然のことのように再生産論をふまえてものを言うのですが、第二部には、その部分がない。再生産論が、恐慌の周期的な到来のしくみを解明する理論的な指針にまで、仕上げられないままでいるといった印象が非常に深いのです。

 このことは、『エンゲルスと「資本論」』で、エンゲルスがこの部分をどう編集したかを調べたときにも、また『レーニンと「資本論」』で、再生産論と恐慌のかかわりについてのレーニンの問題意識を研究したときにも、強く感じていたことでした。結論を先にいうと、どうもこの部分には、マルクスが書く予定でいながら書かないままに終わった部分――いわゆる“ミッシング・リンク(失われた環)”があるのではないか、というのが、私の考えです。その問題意識で、マルクスの資本主義批判の歴史を、『一八五七〜五八年草稿』、『一八六一〜六三年草稿』、それから『資本論』とその草稿へと追究してみたい。やはりマルクスの考え方は、歴史のなかにいちばん鮮明に現れますからね。

 このことは、マルクスから引きついだ「科学の目」で二十一世紀の資本主義を解明する仕事にも結びつくものだと、考えています。

 足立 再生産論に“ミッシング・リンク”――書かれざる一章があったのではないか、という問題提起は、たいへん知的興味をそそられます。たいへん雄大な計画ですね。

未来社会論――21世紀を展望して

 足立 では、二つ目の研究問題とは何ですか。

 不破 未来社会論――要するに、マルクス、エンゲルスの社会主義、共産主義論の総ざらえです。

 マルクス、エンゲルスは、未来社会について勝手な青写真を描くことを、科学に反する態度として、きびしくいましめた社会主義者でした。しかし、資本主義社会の矛盾と歴史的な限界を分析し、その克服が人類社会の進歩にとって避けられないことを科学的に証明したわけですから、その矛盾を克服した社会が、どんな特徴をもつかということ、そのことの方向性は、資本主義批判のなかから、おのずから明らかになってくることだし、『資本論』のなかにも、その他の文章にも、その点での少なからぬ指摘、言及があります。

 ですから、いったいマルクス、エンゲルスが、未来社会について、自分たちの見解をどこまで明らかにしたのか、それから、その指摘や言及が、現代の世界にどこまで引きつがれうるのか、私は、ここには、マルクス、エンゲルスの全遺産をふまえて、あらためて研究すべき大きな理論問題があると考えています。

 この問題は、科学的社会主義の理論の大事な柱をなすものの一つなんですが、これまであまり本格的には研究されてこなかった分野です。実は、ソ連がああいう形で存在したことが、この研究の最大の障害となった、という側面もあります。ソ連は、崩壊する最後の瞬間まで、ソ連こそが「発達した社会主義」だと自己主張していたのですから、「社会主義社会」の見本が現実にそこにあるなら、いまさら、マルクス、エンゲルスがどう言っていたかなど、ふりかえって研究するまでもない、ということにもなります。実際、スターリン時代にソ連でつくられた『経済学教科書』などは、社会主義の部分は、内容は、ソ連経済の実態のごく実務的な解説ですませ、それに社会主義の「経済法則」という意義をあたえただけのものでした。

 私たちが、二十一世紀を「科学の目」で展望するというとき、この分野でも、マルクス、エンゲルスの理論的な遺産の全体を歴史的、批判的に検討し、うけつぐべき核心がどこにあるかをあらためて明らかにすることは、避けることのできない課題だと思っています。

 山口 二十一世紀の幕開けにあたって、非常に魅力的な研究の構想をうかがって、興味と関心をかきたてられました。二十二回党大会で、“資本主義の現実の諸矛盾のなかから、二十一世紀にむけて、社会主義への展望が生まれてくる”という大きな見方が示されましたが、その問題意識と、不破さんの二つの研究課題――再生産論をふくむ資本主義批判と、未来社会論というのは、重なりあってきますね。

 不破さんのこれまでのマルクス、エンゲルス研究の総合版になるような気もしますが、二十一世紀という新しい時代につながる研究課題として、今後の研究成果に期待したいと思います。

 不破 二十一世紀のとびらが開かれた、まさにその幕開けの新春ですから、いま私がもっている問題意識がどこにあるかを、遠慮なく語らせてもらいました。研究そのものは、ともかく『レーニンと「資本論」』をすませてからのことなんです。この問題意識がどう具体化し、それがどう実るか、それには“やってみなければわからない”という面がいつの研究でもつきまとうのですが、新世紀にふさわしい実りをえるように、私なりに全力をつくすつもりです。

 山口、足立、不破 (たがいに)今日は、ありがとうございました。

 

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