日本共産党

2001年8月14日(火)「しんぶん赤旗」

日本共産党創立79周年記念講演会

参院選のたたかいから21世紀の流れを考える

中央委員会議長 不破哲三

 十日の日本共産党創立七十九周年記念講演会で、不破哲三議長がおこなった講演の大要は、つぎの通りです。


 会場のみなさん、こんばんは。CS通信をご覧の全国のみなさん、こんばんは。日本共産党の不破哲三でございます。(拍手)

 たいへんな選挙戦でしたが、みなさんのご支援、ご協力、ご奮闘に、まず最初に心からお礼を申し上げます(拍手)。また、選挙の後、手紙、ファクス、電話、インターネットで、たくさんのご意見をいただきました。激励の励ましのお言葉もあれば、いろいろとご批判のお言葉もありました。それは、すべて私ども読みまして、必ず今後の活動にいかしてゆくつもりでありますが、この機会にあらためてお礼を申し上げます。(拍手)

日本共産党は21世紀にむかって何を提起したか

 先ほど、志位委員長が、今度の選挙戦の特徴であった政治的突風の問題について話しました。

 私も選挙戦の間、この突風にぶつかりながら、また、そのことを考えながら、たたかったものであります。こういうときには、突風に押し流されないこと、そして国民の前で、今後の政治的な展開の足場になるしっかりした問題提起をすること、これが政党として特別に大事になると思ってきました。

 そういう立場から、私は、この選挙で日本共産党が二十一世紀に向かって何を提起したのか、そのことをみなさんと一緒に考えてみたいと思います。

1、「日本改革」−日本が必要としている国民的な改革の全体像をしめした

 まず第一の問題は、経済政策の面で、日本共産党が小泉「改革」に対して、国民的な改革についての私たちの構想と提案――日本改革を対置し、それをより具体化して示したことであります。

 実は私たちが、いま日本が必要としている改革の全体像を、二十一世紀に向けての新しい「国づくり」あるいは「日本改革」という形でまとまって提起したのは、この四年ほどのことになります。小泉さんよりだいぶ早いわけです。(笑い)

日本資本主義が落ち込んだ危機的な遅れとゆがみ

 この提起の出発点となったのは、長い自民党政治のもとで、日本資本主義が落ち込んだ危機的な遅れとゆがみに対する分析でした。同じ資本主義でも、ヨーロッパやアメリカの国ぐにと比べて、日本の現状はあまりにもたいへんなところに落ち込んでいます。

 私たちはそのことを、二つの面からとらえました。

 一つは“ルールなき資本主義”という問題です。同じ資本主義の国でも、社会の姿にあまりにも大きな違いがある。

 たとえば、いま不景気と失業という問題は世界共通ですが、日本ではどんな不景気の中でもサービス残業というただ働きが横行し、それを前提にしたリストラが激しくやられています。ところがヨーロッパ、たとえばフランスでは、こういう時期だからこそ、政府が先頭にたって、三十五時間労働法――労働時間を(週)三十五時間にまで短縮して、それで雇用拡大をやろうとしている。これぐらいの違いがあるのです。

 もう一つは、税金の使い方の“逆立ち”という問題です。これはいわば“ルールなき資本主義”の財政版だといってもよいでしょう。

 「公共事業五十兆円、社会保障二十兆円」、税金の使い方が間違っているということは、私どもがこの数年来、くりかえしくりかえしいってきたことで、国民のみなさんのあいだでも、かなり知られてまいりました。

 政府は、選挙中、いろいろごまかしの数字をあげて、こんな逆立ちはないのだといってきましたが、しかし事実は隠しようがないのです。

 私はここで、政府が発表した統計を根拠にしてお話ししますが、政府の総務省が毎年、「行政投資実績」というものを発表しています。これは国と地方自治体、公団がおこなっている公共事業の総額をまとめた数字です。それからまた、厚生労働省が、社会保障の財源を調べて、そのうちの公的負担、つまり国と地方自治体の負担の合計の数字を発表しています。どちらも、政府が責任をもって発表している数字です。

 九〇年代の数字をあげますと、年々の変動が多少あるのですけれども、一九九五年度の行政投資実績は五十兆九千億円、社会保障の公費負担、国と自治体の負担の合計は二十兆八千億円でした。一番新しい数字では、一九九八年度の行政投資実績が四十七兆三千億円、社会保障の公費負担が二十一兆九千億円です。このように五十兆円対二十兆円というのはほぼ固定した線になって、九〇年代続いているのです。

 国際統計で世界のほかの国の様子を見てみますと、公共事業への投資が社会保障の公的負担より大きいなどという国は、日本のほかにはどこにもありません。ここに、逆立ちのもっとも典型的なあらわれがあります。

憲法の規定はあるが、社会的な裏付けがまだできていない

 なぜ日本はこんなにひどい“ルールなき資本主義”になったのか。

 憲法をみますと、日本の憲法は、国民の生活や権利を守るルールの基礎をおいている点では、世界の資本主義国の中でもたいへんすぐれた内容をもっています。

 憲法第二五条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

 国民の経済的な権利を、憲法の条文でこれぐらい明確に規定している国は、資本主義の国にもほとんどないのです。サミット(主要国首脳会議)に集まる国の中で、こういう条項をもっているのは日本のほかにはイタリアだけです。フランスは戦後の最初の憲法ではもっていましたが、いまでは前文の方に移されています。

 ですから“ルールなき資本主義”どころか、“ルールある資本主義”になろうということを定めたのが日本の憲法だったといえるでしょう。

 ところが、戦後五十数年の歩みのなかで、この条項の社会的な裏付けがいまだにできないままできた。ここに私は、憲法問題にもかかわる大事な問題があると思います。

 この遅れとゆがみを解決することは、二十一世紀の日本の改革の根本問題です。

 景気、雇用の問題もあります。社会保障の問題もあります。財政危機の問題もあります。環境問題もあります。食料・エネルギーの問題もあります。あるいは少子化という問題もあります。いま国民が直面しているあらゆる問題が、実はこの社会・経済の、ゆがみの解決を求めています。このゆがみを放置したままでは、その上に言葉だけの「改革」をどんなに積み上げてみても、本当の、日本がぶつかっている問題の解決にはならない。ここに大事な点があると思います。

 実は、財界人のなかにも、なかなか突っ込んだ考えをする人がいました。亡くなったソニーの盛田会長は、そこに気づいて、九〇年代の初めに、日本が世界で生きてゆくための課題として、このゆがみをただす方向での「日本の経済・社会システム全体の改革」が必要だということを論文で提唱したことがあります(「『日本型経営』が危い」『文芸春秋』一九九二年二月号)。

 ところが小泉首相のほうは、「自民党を変える」という言葉はあるのだが、このゆがみの根本については、何の認識も何の問題意識ももっていません。だから、いくら「改革」を叫んでも、それは自民党政治の枠内での、ごく部分的な手直しにしかならず、経済の活路を見いだすことはできないでいます。結局、そこから生まれるのは、国民に「痛み」を与えるだけの混迷であります。

 みなさん、二十一世紀に、国民の希望にこたえる経済発展をめざそうとしたら、世界の資本主義国のなかでも、あまりにも遅れ、ゆがんだ日本の現実をただす、ゆがみの是正に挑戦する、こういう「日本改革」の方向に向かわざるをえないではありませんか。(拍手)

“ルールをもった経済社会”の実現と未来への展望

 ヨーロッパでも、実はひとりでにこうなったわけではないのです。戦前には、人民戦線運動という、ファシズムに反対する運動がヨーロッパでおこりました。その時代に、社会保障や有給休暇など、働く者の権利の体系がかちとられました。戦後もそれを引き継いでの運動が各国で重ねられました。

 九〇年代になってからでも、たとえば、いったんかちとった、労働者の勝手な首切りを抑える「解雇制限法」について、「これは邪魔な規制だ」と、大企業筋から「規制緩和論」がとなえられて、廃止されたりもしましたが、またそれをはね返して、新しいルールをかちとる。それが選挙の大争点になることもある。こういうたたかいをへて、いまでは解雇の規制の問題が、EU(ヨーロッパ連合)の決定として、全ヨーロッパ規模での規制のルールができるようなところまで進んでいます。(拍手)

 日本でも、“国民の生活と権利を守るルールをもった経済社会”、この大目標を掲げて、その実現のためにがんばろうじゃありませんか。(拍手)

 私どもがいう“ルールのある経済社会”というのは、これは、資本主義をなくそうということではありません。ヨーロッパの資本主義国の例を比較にあげましたように、性格からいえば、私どもがとなえている「資本主義の枠内での民主的改革」であります。

 しかし、それは、経済の面で「国民が主人公」という状態に大きく前進しようという経済民主主義の実現であります。ですから、さらに前に進もうじゃないか、こういう方向づけが国民大多数の希望になる場合には、“ルールある経済社会”というのは、「国民が主人公」という立場での、さらに進んだ改革への足場にも十分なりえるものであります。

 そういう点で、私どもが掲げたこの目標は、二十一世紀の未来をめざす、大きな意味をもっているということも、この際強調したいのであります。(拍手)

2、侵略戦争と植民地支配の歴史をきっぱりと清算しよう

 外交の問題では、私たちはこの選挙戦のなかで、二つの問題を大きく提起しました。

 一つは、アメリカいいなりの外交から抜け出し、一人前の国として自主・自立の外交に転換するという問題でした。もう一つは、侵略戦争の過去をきっぱりと清算した立場を国として明らかにするという問題でした。きょうは、この二番目の問題について、少し立ち入って話をしてみたいと思います。

日本は、植民地支配と侵略戦争の歴史をもつアジアでただ一つの国

 日本は過去において、中国と東南アジアにたいして侵略戦争を行いました。台湾と朝鮮にたいして植民地支配を行いました。そういう国が、この歴史をきっぱりと清算するということは、日本のこれからの進み方においても、それからまたアジアの国ぐに、世界の国ぐにとの友好の関係にとっても、たいへん重大な意味をもつ問題であります。

 日本が明治維新で国際政治に登場してから、いまでは百三十数年になりますけども、みなさん、この百三十数年間を考えてみてください。アジアの国の中で、アジアの隣国を植民地にしたという歴史をもつ国が日本以外にあるでしょうか。それからまた、アジアの隣国にたいして、侵略戦争で攻め込んだという国が日本以外にあるでしょうか。そういう歴史をもっているのは、アジアの諸民族のなかでは日本だけなのです。

 しかもその歴史は、台湾にたいする植民地支配は五十年、朝鮮にたいする植民地支配は三十五年、そして中国にたいする侵略戦争は、いわゆる満州事変(一九三一年)から数えても足かけ十五年。ヒトラーがやったヨーロッパでのドイツの侵略戦争とは歴史の規模も違う、極めて重大で深刻なものでした。そしてそれがアジアにひきおこした惨害は、言葉にはつくしがたいものがありました。

 このことの反省をぬきにしては、アジア諸国との友好はありえないということを、日本の国民として肝に銘ずる必要があると思います。他の民族にたいする犯罪は、三十年たったから、五十年たったからといって、国民として忘れさっていい問題では絶対にない。このことを銘記すべきだと思います。(拍手)

ドイツはヨーロッパで、どのように過去を清算しているか

 私はその点で、ヨーロッパにおいてドイツがとっている態度には、日本として本当に注目する値打ちがあると思います。

 ドイツでは、節目ごとに、大統領や首相など、ドイツ政府の責任ある人々が、ナチス・ドイツの行った犯罪的な戦争を告発し、その歴史の記憶をしっかりと握って次の世代に引き継ぐ、それが現代に生きる自分たちの責任だということを、くりかえしくりかえし訴えています。

 たとえば六年前の一九九五年、世界大戦終結五十周年の記念式典(五月八日)が行われたときに、ヘルツォーク大統領(当時)は、「ドイツは、かつて存在したことのないもっとも恐ろしい戦争を開始した」といって、その戦争を告発しました。

 ヒトラーの戦争というのは、たいへん長期にわたる戦争のように思われがちですが、一九三九年九月のポーランド侵略から始まって、四五年五月のベルリンでの崩壊に至るまで、わずか六年間の戦争でした。その六年間をふりかえりながら、ドイツが引き起こした戦争の惨害を大統領は生々しく叙述するのです。

 「ヨーロッパは、大西洋からウラル、北極圏から地中海沿岸まで廃虚となった。ドイツも含めあらゆる欧州諸国の何百万人という人々が死亡し、たおれ、爆撃の中でくだかれ、収容所の中で飢え死にし、逃走の途上で凍死した。そしてユダヤ人、ジプシー、ポーランド人、ロシア人、チェコ人、スロバキア人をはじめとする何百万という人々が、人間の頭にかつて浮かんだことのないような最大の絶滅行動〔大虐殺〕の犠牲となった」

 そして彼は、いいます。

 「多くの諸国民の罪のない人々に対して大虐殺(ホロコースト)をおこなったのはドイツ人である。ドイツ人は今日でも、むしろ五十年前よりももっとはっきりと、自分たちの当時の政府や自分たちの父親たちの多くが、大虐殺に責任があり、ヨーロッパの諸国民に破滅をもたらしたことを知っている。ドイツ人の多くはそのことに苦しんでいる。そしてまた自分自身の苦しみも忘れていない」

 戦争が終わって五十年たったときに、国の大統領が、こういうことをドイツ国民の前で訴え、“戦争はどんな戦争も悲惨なものだ”という一般論に逃げないで、ドイツの戦争責任をはっきりと示すのです。

 つづいて去年二〇〇〇年にはこういうことがありました。ナチス・ドイツの強制労働によって被害を受けた人々に補償をする、そのための約五千四百億円の基金が設けられました。この基金の名称は「記憶・責任・未来」とされました。

 この基金設立の法案をドイツ議会に提案するとき、シュレーダー首相が提案演説をおこないましたが(四月十日)、首相は、強制労働の犠牲者に対して財政上の支援をすることがドイツの歴史的責務であることを訴えると同時に、「しかし、財政上のことだけが問題なのではない。なによりも、過去の犯罪の繰り返しをこれからのあらゆる時代を通じて阻止する、その目的でこの歴史の記憶を持ち続けることが重要なのだ」と語りました。

 この法律の前文には、「ドイツ議会は、ナチズムの犠牲者に対して政治的・道徳的責任があることを認める。ドイツ議会は、これらの人々に加えられた不正の記憶を将来の世代に伝える」と書きこまれています。この歴史とその責任を将来にわたって忘れてはならないという前文をもって、この基金の法律が設けられたのです。

 それからまた、ドイツの刑法には、七年前につぎのような条項が追加されました(一九九四年十二月)。

 「ナチズムの支配下でおこなわれた民族虐殺を、公の秩序を乱す形で否認したり、故意に過小評価したものは五年以下の禁固刑または罰金刑に処す」

 ヨーロッパの諸国民に対してナチス・ドイツが犯した侵略戦争と民族虐殺の犯罪について、五十数年たった現在の瞬間において、ドイツ政府がこれだけ厳しい態度をとっている。私たちは、これは、今の日本が大いに注目し、学ぶべきことだと思います(拍手)。こういう態度をとっているからこそ、ドイツは、いろんな問題があっても、戦後のヨーロッパで信頼ある地位を占めることができているのであります。

“日本は正しい戦争をやった”――このような政治や教育は絶対に許されない

 日本ではどうでしょうか。これだけの責任ある言明は、政府のいかなる代表者からも、今までに一度も行われたことはありません。よく村山首相の談話(一九九五年八月)が引用されますが、これも「植民地支配と侵略」の歴史があったことについて、ごく簡単な言葉で触れているだけで、ドイツの責任ある代表者たちの言明とは比べるべくもありません。

 しかもいまとりわけ重大なことは、いまの日本では戦後生まれた方が七割を超えるようになった、つまり「戦争を知らない世代」の人たちが人口の大多数になったということを利用して、一部の人々が、「日本のやった戦争は自存自衛とアジア解放のための正義の戦争だった」という考えを、あからさまに日本社会に押しつけ、子どもたちに押しつけようとしているところにあります。

 この人々は、戦争中、戦争の指導者たちが「この戦争はアジア解放のための戦争だ」という意味でつけた「大東亜戦争」という呼び名まで、復活させました。歴史教科書と靖国神社参拝という二つの問題の根底に共通にあるのはこの問題であります。

 もしこの企てが成功し、つぎの世代の多くの人々が“日本は正しい戦争をやった”と思い込むようなことになったら、日本と世界との関係、とくに植民地支配と侵略戦争の被害を正面から受けたアジアの国々との関係は、どんな状況に陥るでしょうか。これが危機的な関係になることは明りょうであります。

 他民族にたいして侵略戦争や植民地化の誤りを犯したという問題は、時間がたったからといって絶対に風化させてはならない問題だと思います。(拍手)

 この問題、とくに戦争を知らない世代に歴史の真実を分かってもらうという仕事は、あの戦争は何々だったという一般的な議論ではすみません。やっぱり、日本の戦争が何であったかを、歴史の事実、ことの経過に即してきちんと解明し分かってもらうことが大事であります。

日本共産党は、侵略戦争肯定論を根本から打ち破るたたかいの先頭に立つ

 私は、選挙の直前に、小泉内閣が韓国と中国の政府の教科書修正要求にたいして、ほとんど全面拒否の回答をしたのを見て、あまりのことに、選挙中ではありましたが、「“日本は正しい戦争をやった” 子どもたちにこう思いこませる教育が許されるか」という文章を「しんぶん赤旗」に書きました(七月十五日付)。

 そこで続きを約束しましたので、選挙が終わってすぐ、「朝鮮にたいする植民地支配の歴史を子どもたちにどう教えるのか」(八月四日付)、「『歴史教科書』は中国にたいする侵略戦争をどう書いているか」(八月五日付)という二つの文章を続けて書きました。書きながら歴史の真実をいま振り返り、いかに事実に即して明らかにするかが大事だということを、私自身、あらためて痛切に思いました。

 いま、日本が侵略戦争をやったという事実を否定したり、植民地支配の罪を軽く見たりする考え方、「大東亜戦争肯定論」といっていいと思いますが、これを打ち破ることは、歴史の真実を踏まえ、平和と民主主義の立場にたった、文字通り国民的な意味を持つ思想闘争だと思います(大きな拍手)。そして、その成り行きのいかんは、二十一世紀の日本の運命にかかわるものだと思います。

 とくに私たち日本共産党は、いまから七十九年前、党が創立されたときに、党の綱領(草案)に“朝鮮の完全な独立”と“中国の領土からの全日本軍の撤退”の要求を掲げた政党です。

 そして、戦争が始まった最初のときから、これは間違った侵略戦争だという真実を指摘し、そのために大変な迫害を受けましたが、どんな迫害にも負けないで、命がけでたたかいぬいた政党です。

 私は、三年前に党の関係を正常化して中国を久しぶりに訪れましたが、そのときに一九三七年の日中戦争の発火点となった盧溝橋を訪れました。そのほとりに中国人民抗日戦争記念館がありまして、そこを見ましたら、満州事変のときに日本共産党と中国共産党が共同で発表した戦争反対の声明が掲げられていました。満州事変が始まったのは、いまから七十年前の一九三一年九月十八日です。そして、この共同声明の日付は九月二十日でした。戦争が始まった二日後に、侵略した国の日本共産党と侵略された国の中国共産党が、この侵略戦争に反対する共同声明をただちに出した。私は、そのことに深い歴史の重みを感じました。

 私どもの手もとには、この声明は保存されていませんでしたので、コピーをもらって帰りましたけれども、そういう歴史をになう政党として、私たち日本共産党は、この思想闘争の先頭に立つ義務と責任があることを自覚しています。(大きな拍手)

3、日本の民主主義をおびやかす公明党・創価学会の活動について

 三番目の問題は、民主主義の問題です。

 公明党・創価学会の謀略的な選挙妨害と異常な反共主義という問題は、ここ二、三年、選挙のたびに経験してきたことですが、こんどの選挙中に、その根底にある非常に危険な問題が明らかになりました。そのことについて、三番目の問題としてのべたいと思います。

三十年前、日本社会は、公明党・創価学会の活動に危機感をもった

 これには実は、大きな歴史があります。

 いまから三十年ほど前ですが、六〇年代から七〇年代の初めにかけて、日本の社会は、公明党・創価学会の動きに民主主義とは異質のものを感じて、強烈な危機感をもちました。

 何が異質だったか。いくつかをあげてみますと、一つは、「邪宗撲滅」です。創価学会は、「邪(よこしま)な宗教は撲滅するんだ」という看板を当時、公然と掲げ、この看板のもとで、自分たちと信仰、思想、信条の違うものにたいする猛烈な攻撃を学会活動として行っていました。

 多くの宗教がその被害を受けましたが、政党では日本共産党が最大の被害者でした。そして「撲滅」という言葉に象徴的に示されているように、「邪宗撲滅」のためにはどんな無法な手段も平気でとられました。

 二つ目は、そうやって相手を攻撃する一方、自分たちにたいする批判は、どんな手段を使っても封殺しようとする、民主主義とはあいいれないそういう体質があからさまにありました。あとでつぎつぎ分かったことですけれども、公明党・創価学会を批判する書物が出ようとすると、ありとあらゆる手立てを使ってこれを闇(やみ)に葬り去る。こうして葬られた書物が何冊にも及びました。

 三つ目には、「宗教」が「政治」を支配するという「政教一体」であります。とくにそれは、選挙戦にもっとも端的にあらわれました。

 その根底には、自分たちの信仰を国の宗教にして、日本の全国民に押しつける、当時、「王仏冥合(おうぶつみょうごう)」という言葉でいわれましたが、自分たちの宗教の国教化という目標がありました。

 この問題では、創価学会が議会に進出するのは、創価学会が信仰する「戒壇」を国の力でつくる、「国立戒壇」を国会で議決するためだ、それが政界進出の最大の意味だ、そういうことが公然とうたわれたことさえありました。

言論・出版妨害とその誤りを認めた池田「猛省」講演

 こういう動きに民主主義に対する危機が広く感じられていた、そのさなかに起こったのが、一九六九年暮れの言論・出版妨害問題でした。

 公明党・創価学会が、出版が計画されていた創価学会批判の書物を闇に葬ろうとして、自民党の最高幹部まで動員して妨害工作をしたのです。もう亡くなりましたが藤原弘達さんという著者が、それに屈服しないで抗議の声をあげた。「赤旗」がその声をすぐ報道して世に明らかにしました。そこから始まって、自分たちに都合の悪い言論は闇に葬るということが民主主義の世の中で許されるのかということが、日本社会の大問題になったのです。

 私は国会初当選のときでしたが、一九七〇年二月の国会で取り上げて、時の首相、佐藤栄作氏を徹底的に追及しました。社会党や民社党の議員のなかからもこの問題を取り上げる人たちがでました。こうして、まさに日本の社会をあげての大問題になっていったのです。この議論は、言論妨害問題だけにとどまらないで、先ほど私があげた、公明党・創価学会に日本社会が危機を感じていたさまざまな問題のすべてが取り上げられる大議論になりました。もちろんそれにたいして、公明党・創価学会の側からは猛烈な反撃がおこなわれました。しかし、反撃に屈しないで、私たちはがんばりました。

 最後はどうなったかというと、もう反撃の余地がないと観念して、一九七〇年の五月三日、当時創価学会の会長であった池田大作氏が、「猛省」講演(猛烈な反省の講演)として世に知られることになった講演をおこなって、創価学会の体質改善の約束を天下に行ったのです。

 これはその時取り上げられたすべての問題にたいして、創価学会の側の非を認めて謝罪し、体質の転換を約束した講演でした。

 言論問題では、池田氏はそのとき、非は学会の側にあったことを認め“二度と同じ誤りは繰り返さない”し、“関係者、国民に迷惑をかけたことにたいし、深くおわびをする”、こういう言明を行いました。

 また、“無理な学会活動で社会に迷惑をかけることは絶対にしない”、熱意のあまりだといっても、無理な活動をやることは“学会の敵”になることだとまでいいました。そして、わが党との関係についても“かたくなな反共主義はとらない”と約束しました。

 最後に「政教一体」の問題については、“選挙活動はあくまで党組織の仕事として明確に立て分けておこなってゆく”、つまり学会か公明党か区別がつかないような選挙戦はやらない、党組織の仕事として“立て分けておこなってゆく”、創価学会は支持団体として、地域ごとの応援の役目を果たす、ということを公約しました。

 政界進出の目標についても、「国立戒壇」という言葉は今後一切使わないし、自分たちの信仰を全社会のものにする、国に押しつけるという「国教化」の方針も否定しました。

 こうして謝罪と同時に全面的な体質改善の公約をしたわけであります。

 “それなら”ということで、当時の公明党・創価学会にたいする社会的な批判が収まりました。“それなら民主主義の枠のなかで一緒にやっていけるだろう”、それが池田講演を受けての大方の世論になったわけであります。

 この歴史を見るならば、三十一年前の「猛省」講演に示された池田公約というのは、公明党・創価学会と日本社会との関係にとって決定的な意義をもったものだと、私はいうことができると思います。

「政教一体」の選挙戦の復活と異常な反共主義

 それからいろいろな歴史がありました。この講演の線からの逸脱など不法なことがいろいろありましたが、表向きは池田公約の枠内での動きという形をとっていました。

 しかし、一九九八年に新進党を解体し、公明党が再び復活して以後の動きを見ますと、以前の「政教一体」体制の復活を思わせる動きが全国で非常に目立ってきました。

 とくに昨年初めの京都市長選挙と大阪の知事選挙のあたりから、創価学会が公然と選挙の司令塔になる、そしてその選挙戦というのは、市民道徳も政治道徳も社会的道義もかなぐり捨てた異常な反共主義を特徴とする、こうなってきました。

 「聖教新聞」を見ますと、池田大作氏がここに、「法悟空」――孫悟空をもじったペンネームのようですが、「法悟空」というペンネームで「随筆 新・人間革命」というものを書いています。

 これはふだんは一応随筆なのですが、選挙になると、選挙戦の号令に変わるのです。たとえば今年、都議選があるということになりますと、二月ごろから荒川向けの号令の文章が出る(「地域広布の原点・荒川」二月八日付)、目黒向けの文章が出る(「わが目黒の栄冠」二月九日付)、町田向けの文章が出る(「希望の新天地・町田」二月十七日付)、墨田向けの文章が出る(「庶民の王国・墨田」四月二十六日付)という調子です。重点区とされるところにずっと号令がかかります。

 都議選が終わって参議院選挙になりますと、七月の初めから神奈川向け(「神奈川 7月の深き縁(えにし)」七月五日付)、埼玉向け(「新世紀の電源地・埼玉」七月七日付)、愛知向け(「戦う愛知の誉れ」七月十日付)、東京向け(「7・12『炎の東京大会』」七月十二日付)、大阪向け(「日本一の民衆の都・大阪」七月十四日付)と公明党が選挙区候補をたてる都府県への号令の文章がでます。

 なかでも、私は驚いたのですけれども、五月に書かれたある随筆のなかでは、「今、私は東京の地で、厳然と指揮をとる」、つまり都議選の指揮は私がとっているんだということを平気でいっていました(「勝利の鉄則」五月十九日付)。そういう形で、選挙戦が池田氏によって指導されているという姿が「聖教新聞」にありありと出てくるのです。

 「聖教新聞」を見る限り、公明党というのはうわべだけの衣で、実態はまさに司令塔から活動部隊まで全部創価学会だなと思われるような事態が進んでいました。

 しかも、この文章によりますと、選挙戦というのは「法戦」、“仏法の戦い”なのですね。「広宣流布」といって、創価学会の信仰を世界に広めるための“仏法の戦い”だという位置付けになっていて、この戦いを池田大作氏と一人一人の会員が、「師弟」のつながりをもってともに戦う(共戦)のが選挙戦だということまで強調されています。

 こうなりますと、選挙戦で選挙違反をやっていくら逮捕者が出ても、「法難」だから勇んで立ち向かえということになるのだと思いますが、やっぱりこのあたりに、ここ数年来の選挙戦が謀略と無法が横行する舞台になっていることの重要な根っこがあるなと思ってみてきました。

 これは、すべて「政教分離」を約束した、それからまた“かたくなな反共主義をとらない”ということを約束した「猛省」講演での公約からの、明白な逸脱でした。

「猛省」講演を全面的にくつがえした池田論文(七・一〇)

 こういう逸脱についてはよく分かっていたつもりの私でしたが、参院選直前に書かれた池田大作氏の文章を見て、あまりのことに目を疑うような驚きをもったのです。

 それは、七月十日付の「聖教新聞」に出ていた「戦う愛知の誉(ほま)れ」という文章でした。そこで、三十一年前の言論問題のことが書かれていたのですが、なんとそれが、言論問題は創価学会にとっては、“信教の自由を守る正義の闘争だった”という、位置付けなのです。攻撃した者は、最初に「数人の代議士」とありますから、私ももちろん、その一人なのですけれども、この「数人の代議士」をはじめとして、あのとき、創価学会の言論妨害行為を批判した者にたいしては、「なんという悪逆か」、「理不尽な罵倒の連続」、「卑劣な強敵(ごうてき)」、「極悪の非難」、もうそれこそ字引からひっぱりだせるだけの悪口を全部ならべたかのような(笑い)、悪口がならべられていました。なかでもこれは、と思ったのは、学会を批判した者に「仏敵(ぶってき)」というレッテルをはっていることです。

 私はあぜんとしました。三十一年前の池田講演というのは、言論・出版妨害問題で、自分たちに非があったことを天下の前に認めたものです。それで日本国民と関係者に深くおわびをしたいと、謝罪の意思まで表明したものです。

 ところが、今回の文章は、それを完全に覆して、あれは批判した者が悪かったのだ、正義はわれにありと、そういうことを公然と宣言した。

 私はこの問題は、日本の民主主義のために絶対に見過ごすわけにはいかないと考えて、選挙のさなかではありましたが、あえて「創価学会・池田大作氏に問う」という文章を執筆しました。(拍手)

そこには社会的道義と民主主義に反する二つの大問題がある

 そのなかで、とりわけ重大だと思ったのは、つぎの二つの点でした。

 一つは、「三十一年前の『猛省』講演は世を欺く虚言―うそ―だったのか」という問題です。私は、このことを文章の表題にもしました。

 これだけ大がかりなウソは、ほとんど例がないのです。あのとき創価学会は、言論妨害をわびて、こういう体質改善を約束するから大目にみてくださいということを天下に公約したわけでしょう。それが、まったく心にもないことだった、一時の方便だった、私たちはそんなつもりはまったくなかったのだと、いまになって開き直るわけですから。もう時効だと思ったのかもしれませんが、そんなことは、社会に対して道義的な責任を負う気持ちが少しでもある組織だったら絶対にやりえないことではないでしょうか。(拍手)

 だいたい、あの組織が、相手にたいしてぶつける一番の悪口は「うそつき」という言葉なのです(笑い)。私どもはしょっちゅうやられています。「うそつき」を最大の非難と心得て、わが党にたいしてこれを連発している創価学会ですから、その最高の責任者の池田氏が三十一年前いったことが「虚言」(うそ)ではなかったか、という質問にたいしてどうこたえるのか、注目していましたが、結局、いまだになんの回答もありません。

 しかし、この重大問題は、沈黙でさけてとおるわけにはゆかない問題です。(拍手)

 黙っているということは、「猛省」講演なるものが虚言(うそ)だったということを自分で認めたのと同じではありませんか。(「そうだ」の声)

 二つ目は、自分はいつでも「仏」の側、どんな悪いことをやっても「仏」の側――あるいは「仏」だと思っているかもしれませんが(笑い)――いつでも「仏」の側です。そして、相手の側はどんな正論をとなえても、創価学会・公明党に対して気に入らないことをやる以上、「仏敵」だという議論です。

 これは、自分たちと思想、信条、信仰の違うものをすべて「邪宗撲滅」といって「撲滅」の対象としたかつての路線のあからさまな復活だと思います。

 しかも、「仏の敵」にたいしてはどんな無法も許される。だから、社会的道義も市民・政治道徳も踏みにじったどんな選挙妨害も、どんな謀略活動も、「仏敵」とのたたかいだから許される。おそらく、そういうことで自らを励ましながらやっているのでしょう。(笑い)

 以前は日蓮正宗(しょうしゅう)といったらたいへんなものでしたが、一九九一年に日蓮正宗から創価学会が破門されたあとは、日蓮正宗の本山もその僧りょたちも、全部「仏敵」扱いされるようになっています。

 私は、あの文章で、何をやっても自分は「仏」で、自分を批判するものは全部「仏敵」だとする議論は、「究極の独善主義だ」といったのですけれども、自分たちを批判するものにすべて「仏敵」のレッテルをはり、手段を選ばず、その「撲滅」をはかるという組織は、現代の民主主義のもとでは、政治の世界でも、宗教の世界でも、その存在の資格を疑われても仕方がないではありませんか。(拍手)

「究極の独善主義に未来はない」

 なぜ、三十一年前の公約の取り消しをいまこの時期にやったのか、事情はよく分かりません。公明党が政権についたため、安心して本音をさらけ出したのかもしれません。また、マスコミや政党の批判をより巧妙な形で封殺する体制ができた――政党に対しては票で恩を売る、マスコミに対しても、「聖教新聞」などの印刷を発注しては恩を売っているようでありますが、そういう体制ができて、日本共産党以外に公然と公明党・創価学会を批判する勢力がなくなったという安心感が、背景にあるのかもしれません。

 それからまた、池田大作氏があまりにもえらくなりすぎて(笑い)、日本社会に謝ったなどという歴史をあとに残したくないのかもしれません。(笑い)

 しかし、どのような事情があろうとも、私は、この池田氏の文章に示される現在の公明党・創価学会の言動と姿には、三十一年前に日本の社会が危機を感じたすべての体質的な特徴が復活していることを、見ざるを得ないのであります。(拍手)

 日本共産党は、日本の民主主義を守りぬく立場から、相手がだれであろうと、民主主義を侵すあらゆる策謀に対して、これを許さずたたかう決意をここで表明するものであります。(拍手)

 「池田大作氏に問う」の文章にも書きましたが、

 この「究極の独善主義」には未来がないということ、

 「猛省」講演がうそだったことを自分から暴露したことは、創価学会・公明党およびこれと連合するものの陣営に新しい矛盾を噴き出す新しい状況を生み出さざるを得ないこと、

 このような異常で特殊な集団が政権に参加している問題については、それが社会的な批判と吟味にさらされる日が必ず来るということ、

 このことをここで重ねて強調したいと思います。(拍手)

日本共産党の不屈の伝統をうけついで

 以上、選挙戦のなかで私たちが提起した三つの問題をあげました。私たちはこの問題提起が、これからの日本の政治の展開のなかで必ず生きた力を発揮することを確信しています。

 私たちは昨年の党大会で、党の規約に「創立以来の『国民が主人公』の信条に立ち、つねに国民の切実な利益の実現と社会進歩の促進のためにたたかい、日本社会のなかで不屈の先進的な役割を果たすこと」はわが党の任務だと書きました。「不屈さ」は日本共産党の伝統であります。(拍手)

 戦前、戦後、国民主権と男女平等、侵略戦争反対の民主主義と平和の旗を不屈に貫いた七十九年の歴史、また綱領確立以来の四十年間、民主主義と平和、国民生活擁護の旗とともに、日本の主権と独立の旗、いかなる大国の横暴にも反対する自主・独立の旗を不屈に掲げ、日本と世界の政治のなかに今日の地位を築いてきた歴史は、わが党の大いなる誇りであります。(拍手)

 選挙戦で提起したこの三つの問題――小泉「改革」と対決して真の国民的な改革をかちとる課題においても、日本の前途を誤る「大東亜戦争肯定論」を打ち破る課題においても、公明党・創価学会の謀略的な反共主義を打ち破り、日本の民主主義を守り抜く課題においても、この伝統に立って不屈にたたかうことは、わが党の当然の責務であります。(拍手)

 どんな政治的な突風も、どんなに悪質な謀略も、日本の未来のためにたたかうわが党の不屈の意志をくじくことはできません。(拍手)

 選挙戦の総括はきちんとしながら、確信をもって二十一世紀の政治の前進のために力を尽くすことを最後に申し上げて、話の結びとしたいと思います(拍手)。どうも長い間、ご清聴ありがとうございました。(拍手)

 


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