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 日本共産党を「暴力革命の党」と中傷するため、1950年代のあれこれの事件をとりあげた攻撃もありました。しかし、日本共産党の正規の機関が「暴力革命」などの方針を決めたことは一度もありません。

 この問題の本質は、ソ連・中国からの干渉にありました。1950年に日本共産党を分裂させた「徳田・野坂分派」を使って、ソ連・中国流の武装闘争方針を持ち込もうとしたのです。それとのたたかいを通 じて、今日の党があり、綱領があるというのが、もっとも重要なことです。

 日本共産党は、1946年の第五回党大会で「平和的かつ民主主義的方法」で社会の変革をめざすという方針を決めました。これにたいし、1950年、コミンフォルム(共産党・労働者党情報局)から、「アメリカ占領下での『平和革命』論は間違っている」と突然の「批判」がありました。この「批判」は、当時の徳田球一書記長ではなく、政治局員だった野坂参三だけを名指しで問題にしたものでした。これは、ソ連の情報機関につながる秘密工作者となっていた野坂に、新方針を伝えるためのメッセージだったとみられます。そのいきさつについては、不破委員長の著作『干渉と内通 の記録』がソ連秘密文書をもとに明らかにしています。徳田、野坂は、党を破壊し、北京に亡命して勝手につくった「北京機関」を党の指導機関と称して、ソ連・中国じこみの方針を日本に持ち込んだのです。

 「徳田・野坂分派」の行動は、党の決定に根本的にそむいたもので、日本共産党の大会や中央委員会とはなんの関係もありません。

 当然、この路線は破たんしました。そして、日本共産党が統一を回復した第七回党大会(1958年)、現在の綱領を確定した第八回党大会(1961年)にすすむ過程で、(1)徳田、野坂らが党を分裂させたことの誤り、(2)ソ連・中国などの干渉に追随したことの誤り、(3)武装闘争路線を持ち込んだことの誤り――を明確にし、それを根本的に克服するなかで、今日の党の路線が確定したのです。

 不破委員長は、「反共派が『火炎瓶闘争』などといって問題にしているのは、ソ連・中国の言いなりになって党を分裂させ、北京に拠点をかまえた徳田・野坂分派が、党の決定にそむいてやったこと、今日の日本共産党が、この分派の後継ぎであるかのようにいいたてるのは、歴史を無視したまったくのいいがかりにすぎない。日本共産党の今日の路線は、この干渉をうちやぶるたたかいのなかで築かれたものだ」と強調しました。