1997年9月26日

日本共産党第21回大会

決議案、中央委員会報告の討論についての不破委員長の結語


 同志のみなさん。中央委員会を代表して四日間にわたる討論の結語をのべたいと思います。

 四日間の発言者は全体で六十六人になりました。これは最近の大会では一番多い発言回数です。四日目もみなさんにご奮闘いただきましたから、それだけの広い討論ができました。しかし、討論通告をした同志は二百八十一人におよんでいまして、語るべき内容をもちながらその機会がなかった同志たちが多かったことを、非常に残念に思います。

 もし用意された発言内容の原稿がありましたら、届けていただければ、みなさんのその発言を、今後の活動におおいに生かしていきたいと思いますので、よろしくご協力をお願いいたします。

壮大な任務にとりくむ発展的な団結の姿が……

 討論の全体の特徴ですが、私は、党中央が提起した内容・方向と代議員のみなさんの発言とのあいだに、ほんとうに生きた交流と統一といいましょうか、脈々と相呼応しつながるものがあった、そういう印象を非常に深く強烈にもちました。

 決議案自体は二十一世紀を展望した大胆なものでしたが、私たちは、こんどの大会報告で、それにつづいて、より立ち入った方向をうちだしました。

 「ガイドライン」見直しによる日米安保条約大改悪に反対することと、医療・社会保障の連続攻撃に反対する、この二つを柱にした国民的なたたかいの提起。

 また、二十一世紀の早い時期に政権をめざしてたたかうとともに、そのためにいま何をなすべきかという問題の具体的な提起。そのなかには、議会勢力で衆議院で百をこえる議席、参議院で数十の議席をもつという、新しい目標もうちだしました。

 また、その最初の政治戦として来年迎える参議院選挙について、必勝区と非必勝区の垣根をとりはらうという新しい方針も提起しました。

 党活動についても、政権にせまる構えで、量・質ともに活動を抜本的に飛躍させるという課題をうちだしました。

 そして、新しい世紀に向かうわれわれのこの事業が、世界史のなかでどういう使命をになっているのかという問題も、視野をひろげて提起しました。

 それぞれ、党中央としては、大胆にうちだしたつもりであります。しかし、この会場では、そのすべての提起が、いわば“打てば響く”といいましょうか、待ってましたといわんばかりの受けとめ方をされました。それどころか、もうそのつもりで活動をはじめているよ、という具体的な実践の報告が、つぎつぎとおこなわれました。方針を打ち出した党中央自身が、みなさんの討論で、おおいに励まされた思いであります。(拍手

 この大会の情景は、初日の報告にかぎりましたが、衛星通信をつうじて全国の同志のもとに届けられました。私たちの推定ですと、この大会と同じ時刻に大会報告を視聴した同志は六千百人にのぼります。「はじめて大会の報告を衛星通信で見た。大会の模様をリアルタイムで見ることができ、自分もその場にいるような気持ちだ」といった感想が、全国からよせられています。内容的にも、「二十一世紀にむけての壮大なロマンを感じた」などなど、この大会の会場にいたみなさんとおそらく同じ気持ちの感想が無数であります。

 このビデオもすでに八千本以上つくられ、現在までに一万一千人の同志が視聴したと集約されています。あわせますと、みなさんをふくめて一万八千人以上の同志が、そういう気持ちで大会に参加したことになります。私は、この会場での一体となった交流とともに、全国が一体感をもって大会に目を集中させている、これはほんとうにすばらしいことだと思います。

 この党大会がそういう大会となった基礎には、私はやはり、二カ月間の全国の熱心な討論があったと思います。

 この二カ月で大会決議案を読了した同志は五〇・七%にのぼりました。一〇〇%の同志が読むという目標からいえばまだ第一歩ですけれども。たとえば六中総の決定は、二カ月たった時点で読了した同志は約三五%でした。それでも割合に早いほうだといわれました。ですから、夏の暑い時期のこの二カ月間、党大会にむけていかに多くの同志が決議案を読み、討論をかさね、この大会を準備してきたかは、この数字にもあらわれました。それが、大会のこのすばらしい姿に実ったといってもよいと思います。

 壮大な任務にとりくむ日本共産党の発展的な団結の姿、それを文字どおり体現した大会になったことを、私はみなさんとともに心から喜びたいと思うものであります。(拍手

「ガイドライン」見直し――3年前、北朝鮮の核疑惑をめぐってなにが起こったか

 大会中に、「ガイドライン」見直しについて日米合意の発表がありました。この問題について、マスコミでも多くの論評、解説、批判がだされています。

 けさもある新聞に、ある知識人のたちいった論評の文章が掲載されていますが、「米国の軍事的行動に、参戦に近い密接な協力をする具体的な内容」のもの、「何を有事とし、いつ、どういう規模で軍事行動するかは米国が決める。それに自動的に協力するという、いわば白紙委任状だ」、そういう批判からこの文章ははじまっていました(「朝日」九月二十六日)。大会での私たちの分析とも大きく共通するものがあります。

 このように、“自動参戦装置”という指摘が、マスコミの論評でも広い認識となりつつあることは、重要であります。

 またマスコミの論評のなかで、今回の「ガイドライン」見直しのひき金となったのは何かという問題についても、かなり一致した分析がおこなわれています。

 ある新聞が、アメリカのキャンベル国防次官補代理の“指針見直しは湾岸戦争と一九九四年の北朝鮮の核疑惑がきっかけだった”という言葉を紹介していましたが(「毎日」九月二十四日)、これは多くの報道が共通してみているところです。

 ここで私は、三年前の一九九四年の北朝鮮の核疑惑をめぐって何が起こったのかということを、いま日米両国政府が「ガイドライン」見直しを具体化しつつあるその時点にたって、ふりかえってみたいと思います。

 あのとき、何が一体用意されていたのでしょうか。

 アメリカは、日本を足場にした大変な軍事攻撃作戦を計画していました。その内容について、三年前の六月、「ロサンゼルス・タイムズ」という新聞が、かなり詳しい記事を書いています(九四年六月十二日付)。「朝鮮有事」が現実になったら何が起こるかについて、この新聞はこう書きました。

 「日本に駐留するアメリカの戦闘機は、任務を遂行するため、昼夜兼行で飛行することになるだろう。在日米軍基地と太平洋のほかの場所のあいだに、巨大な空の橋を一夜にしてきずかなければならないだろう」。太平洋の米軍の基地と日本のあいだに、軍事物資、兵員を輸送する巨大な空の橋がかけられ、そして日本駐留の米軍部隊は昼夜兼行で戦闘機が活動する、こういう事態になる、ということです。

 「なんらかの戦闘が起きれば、初期の段階で、アメリカは急速にジェット燃料や予備部品、技術支援を日本に完全に依存するようになるであろう。日本の領空を無条件で使用することが必要になる」。「ワシントンが東京に求める品目リストは、出し抜けに出され、大量で、始末の悪いものになりかねない」。戦争の後方支援を、全部日本に依存するということです。

 「戦争勃発(ぼっぱつ)から数日以内に、ワシントンは、日本にたいしアメリカからの数百機の部隊輸送機や、数千トンの死活的に重要な補給物資を着陸させるため、札幌、新潟、東京の成田のような主要民間空港の定期旅客便の発着を停止させるよう、日本に要請しなければならないかもしれない」、つまり主要な民間空港は全部米軍用に取り上げることになります。

 この新聞はさらにつづけます。「さらにいっそうドラマチックなことは、数万人の米軍兵士が北朝鮮軍に壊滅されかねない気配が見えただけでも、クリントン大統領は考えられないことを考え、戦術核兵器を配備せざるをえなくなるだろう。ワシントンが日本領土への核兵器持ち込みをもとめなくても、そのような動きがおこれば、日本戦域におけるアメリカの核防衛手段の真相を覆い隠している政府の仮面の薄いベールはたちまちはぎ取られるだろう」。日本に核攻撃部隊がいるという真相がいや応なしにあきらかになるということですね。「アメリカの軍事行動の必要は、日本の核アレルギーと衝突するだろう」

 「ロサンゼルス・タイムズ」は、そういうことをずっと叙述したうえで、「日本の支援がなかったら、アメリカは朝鮮で戦争をたたかい、勝つことができない」と結論しています。

 これが「ロサンゼルス・タイムズ」の三年前、一九九四年六月の解説でした。

 これが一ジャーナリストの架空の話でなかったことは、この記事がその直後に、アメリカの太平洋軍の準機関紙「スターズ・アンド・ストライプス」に抜粋・転載されたことからもわかります。これは少なくともここにアメリカ軍部の考え方、計画に合致したものがあるということの証明でした。

 もう一つ大事な事実は、アメリカの軍事作戦計画をめぐって日本とアメリカ政府のあいだに何が起こったか、という問題です。

 実は、去年、自民党の“国防族”に属する人で、閣僚の経験もある政治家が、アメリカ側と話し合ったあとで、マスコミの記者に語ったことですが、一九九四年当時、アメリカが朝鮮への軍事作戦をやろうと考えて、協力を日本に打診をしたというのです。ところが日本側がもたもたしてうまくいきそうもない、それで軍事作戦をあきらめ、カーター元大統領を北朝鮮に送って、話し合い解決の道を選ぶことにした、というのです。これもきわめて重要な事実であります。

 つまり当時は、アメリカの軍事介入作戦に協力する「ガイドライン」がなかったために、アメリカはやりたい軍事行動をあきらめて平和的な道を選んだ。では、「ガイドライン」がそのときあったらどうだったろうか。それを考えると、大変なことであります。

安保大改悪の危険性は、いつ日本と世界を直撃するか知れないもの

 私はこの歴史的な経過をふりかえるとき、三年前に、日本と世界の悲劇につながりかねない危険な事態が、まさにこの日本で進んでいたこと、しかし国民はだれもそれを知らなかったこと、そのこと自体が大変恐るべきことだということを痛感します。

 しかもその経過には、こんどの「ガイドライン」見直しの真相をしめす問題点が、明りょうに浮きぼりになってきます。

 第一に、いま、「ロサンゼルス・タイムズ」の記事で私が読みあげたことは、全部「ガイドライン」にかんするこんどの合意文書に書いてあることです。「ガイドライン」見直しの合意文書では、きわめてさらりと書いてあります。たとえば、「有事」になったら日本が「後方地域支援」に参加するとある。たった六文字ですけれども、その六文字が現実に展開されれば、そこにはこういう恐るべき事態がふくまれてくるのです。「民間が有する能力の適切な活用」と、あたりさわりのない言葉で書いてありますが、成田、札幌、新潟などの空港、これは例としてあがっているのであって、主要な民間空港すべてを閉鎖して米軍専用にするということまで、「適切な活用」のなかにさらりとはいっているわけです。私は報告で、「ガイドライン」見直しの諸項目は、すべて実際には戦争に参加する行為だといいましたが、現にたてられている米軍の計画に照らし合わせてみれば、事態はまさに報告したとおりだったということがわかるのであります。

 第二点。この三年前の事態は、朝鮮「有事」の問題をめぐっておこなわれたものですが、いますすんでいる「ガイドライン」見直しは、アジア・太平洋地域の全域にかかわっています。どこで何が起きようが、「有事」になったら、同じ事態が起きる、「ロサンゼルス・タイムズ」はこんなことになるんだ、日本の国民は覚悟できているかと書きましたが、そういう事態がただちに現実のものになる。こういうことであります。

 第三に、これはもっとも重要なことですけれども、私たちは、三年前の北朝鮮の核疑惑のときにも、問題の平和的な解決を国会でもおおいに要求しました。政府は、平和的な解決が望ましいという態度をとりました。しかし実際の経過では、アメリカ側が軍事的な制裁か平和的な解決かという問題があったときに、まず軍事的な制裁の方法を選ぼうとして日本への打診をしたのです。しかし、「ガイドライン」がととのっていなかったためにそれができなかった。そしてやむをえずカーター特使の派遣という平和的な解決の道を選ばざるをえなかった。それが三年前の真実でした。

 もし、あの時点で、「ガイドライン」見直しができていたらどうでしょう。アメリカは、そのとき、優先的に考えていた軍事制裁の道を、安心して発動することになったでしょう。日本の後方支援の体制さえあれば、アメリカの覇権主義は自分たちが必要と思う軍事作戦の道を、もっと大胆に、思いきって選ぶことができる。日米両国政府のあいだでも、そういう打診が現におこなわれていたわけですから。そして、日本が注文どおりに行動できないために、やむをえず平和的解決への道をえらんだのですから。この経緯は日米両国の指導者のあいだですべて周知であって、ここに「ガイドライン」問題をめぐる真実があることは、政府与党の常識になっているのです。

 私たちは、大会の報告で、こんどの見直しが、日米軍事同盟の大改悪であり、日本と世界の平和をおびやかすものだと主張しましたが、平和をおびやかす危険性とは、遠い将来のことではないのです。三年前にそういう瀬戸際にたたされたように、いつ、日本とアジアを直撃するかわからない、きわめて現実的な危険性であります。

 そこをよく見定めて、この問題にたいする国民的なとりくみに力をそそぐことが大事だということを、かさねて強調したいと思うところであります。(拍手

民主的政権への展望――70年代とのちがいはどこにあるか

 つぎの問題ですが、「二十一世紀の早い時期に民主的政権をめざす」という展望と任務は、大会の討論の最大の焦点になりました。

 すべての支部と機関が、表現のしかたはいろいろですけれども、「政権をとる党」としての構えを問題にしていたのが特徴でした。岡山の大学でも、そのつもりで大学の党支部の活動が計画的にくまれているようであります。(笑い拍手

 この問題で、七〇年代の躍進の時期との比較もずいぶん議論になりました。私は、民主連合政府を七〇年代の遅くない時期に実現しようということを、一九七〇年の第十一回党大会で確認しあったのですが、その当時と、われわれがいま、この政府を二十一世紀の早い時期に実現しようといっているのと、たたかい、時代、情勢のあいだにどういう違いがあるかということを少し考えてみたいと思います。

 七〇年代の民主連合政府の展望は、日本共産党と社会党との革新統一戦線の実現の成否が、大きなカギをにぎっていました。当時、大衆運動や地方政治の舞台では、共闘がかなりすすみましたが、国政のうえではなかなかすすみませんでした。党首会談を何べんもかさねました。「革新統一戦線をめざそう」ということは一致するが、社会党がふみきらない、そこに、民主連合政府をめぐる七〇年代のたたかいの大事な中身の一つがありました。革新統一戦線をめぐる論争が政局の舞台でおこなわれたのです。

 こういう内容をもった展望でしたから、一九八〇年に、社会党が公明党との例の「社公合意」で日本共産党排除論にたち、右転落を開始したときに、この展望は当然根拠を失ったわけであります。

 そして、いまのたたかいはどうか。私たちは無党派勢力とわが党との共同が、二十一世紀の民主的政権にせまるカギをにぎっていると位置づけています。この方針はいつだしたかというと、社会党が「社公合意」で右転落をした翌月、一九八〇年二月にひらかれた第十五回党大会でうちだした方針です。

 それから十七年かかりましたが、その道にたって政権を展望できるような新しい力関係、まだその情勢を開いたとはいえませんが、展望はかなり早くからみえますから(笑い)、それが見えるところまで前進をしてきたのです。

 この道は、あれこれの他党の動きいかんで左右されるという性格のものではありません。私たちと革新民主勢力の奮闘と努力によって、どれだけ前進できるかが決まる道であります。

 こういう点で、七〇年代の民主連合政府の展望と今日の展望とのあいだには、そういう政治の流れの発展があり、われわれの力の発展がある、そのことをあらためて整理してつかんでいただきたいと思います。

 二番目は、その政権を展望する党の力量が、七〇年代と今日でどう変わっているのか。これも大事であります。

 これは選挙での得票率や議員の数をくらべてみるとよくわかると思います。

 一九七〇年に政権構想をのべたときには、直前の国政選挙は六九年十二月の総選挙で、得票は約三百二十万票、有権者対比の得票率は四・六%でした。こんどの場合には、去年の総選挙が国政選挙での一番近い数字になりますが、得票は七百二十六万票、有権者対比で七・四%になります。やはりそれだけの前進がそこにあるわけです。

 地方議員の数でいいますと、この大会では四千五十一名と報告しましたが、第十一回党大会当時一九七〇年には千六百八十六名でした。二倍半の前進をしています。なかでも女性議員の数は当時六十一名でしたから、現在の九百六十名というのは十五、六倍の前進であります。また、当時は、議案提案権を持っている自治体は全国に三十一しかありませんでした。現在はそれは三百五十一にひろがっています。

 こういうことで見るならば、私たちが、七〇年代の躍進の時期よりもさらに進んだ地点で、さらに進んだ方向で、民主的政権を展望していることがお分かりいただけると思います。

 そのことは、私は、スローガンにもあらわれていると思うんですね。七〇年代には、「日本の夜明け」といえば京都、「うちが変われば」といえば、大阪、と相場が決まっていて(笑い)、あまりほかの地方でそういう言葉は聞きませんでした。しかし、これはいまでは全日本的なスローガンになって、本家本元がんかなか特許権を主張することがむずかしくなっています。(笑い

 しかし、その応用のしかたは多面的でありまして、佐賀の同志が"佐賀もかわらんば日本はよくならない#といいましたが(笑い)、言葉の表現も自由闊達(かったつ)にひろがっています。ここにやはり、情勢の進展がユニークなかたちであらわれていることを実感しました。

日本の社会の根底には確実に奥深い変化が進行している

 そして討論のなかで非常に強烈に感じたのは、代議員の諸同志の発言、とくに支部や地区の諸同志の発言のなかに、新しい時代に向かい、激動のただなかにある日本の社会の縮図があるという思いです。

 経営での活動、居住での活動、学園での活動、農村での活動など、日本社会の多方面な分野で、まったく違った条件をもちながら、党の力の強さ弱さもまちまちでありながら、全党が活動しています。しかし、その活動の一つひとつをうかがいますと、“こんな変化が起きているのか”、“こんなに大胆な活動がいま展開されているのか”、と私たちが驚くような情勢の進展があり、活動の展開があります。

 民間大経営――ほんとうに強固な支配体制がしかれていて、それこそ身動きする余地もないような圧迫された状態というのが七〇年代の特徴でしたが、その民間大経営で、党や職場革新懇が自由闊達に活動し、その活動で労働組合を動かして労働者の要求を実現し、信頼をひろげている。これも地道な活動の積みかさねできりひらいたものですが、ほんとうに新しい状況の展開であります。

 それからまた、一人も知人のいない山奥の村を訪問して、コーヒーを飲んだお店の女性店主から、“内証”の党づくりが始まったという話も、昨日うかがって驚きました。あげればきりがないほど感動的な報告に満ちた大会でした。

 日本の社会の根底に確実に奥深い変化が進行している、このことを、党中央自身、みなさん方の討論からあらためて確認いたしました。(拍手

 そういう点で、この四日間の討論は、党中央が提起した方針を豊かに肉づけし、より力強い内容をあたえ、全党の未来を開く指針としてきたえあげた、そういう討論だったということを私は痛感し、そのことをみなさんに申しあげるのですが、おそらく多くの同志が共感していただけるものと思っております。(拍手

“討論がおもしろい”多くの外国来賓の感想

 こんどの大会には、多くの外国から来賓のみなさんがみえました。私たちは、大会のあいだに、多くの代表たちと懇談したり意見交換しあったりしてきましたが、一つの特徴は、日本共産党の路線への注目と同時に、大会の討論そのものの反響が大変大きかったことであります。

 お国の名前は一つひとついいませんけれども、「代議員の発言で日本の党の活動がわかる」、「ちょっと席を立とうと思っても討論がおもしろくて、動くわけにいかない」、そういう声もきこえます。「ほとんど全代議員の発言が具体的な中身をもち、今後の前進をかちとる自信と楽観に満ちている」。「発言が大変おもしろい。党を建設することや楽しい体験などを発言している。しかも不屈だ」。「私がいった他の外国の党の大会では、だいたい一般的な話が多いが、ここでは、そういうものがない」。そういう意見もうかがいました。

 「女性たちが日常的な党活動をしていることにくわえ、日々生起している新しい問題に挑戦している」。これは、女性の来賓の感想であります。「発言がすばらしい。彼らは言葉だけで議論したり、スローガンをさけぶのではなく、具体的な状況にもとづいて、具体的にどう活動がすすみ、どう変わったかということを発言している」。「三人党員が増えても報告している(笑い)。党大会というのはこうでなくちゃならない。これが科学的討論だ」。こういうおほめの言葉もいただきました。(拍手

 また、自分の国で、いろいろ大会などの運営にあたっている方だと思いますが、「全体会議という方式でこういう討論ができるのは、日本共産党が確固とした方針をもち、また大会準備のなかで下からの十分な討論がおこなわれているからだと思う」という感想もうかがいました。

 外国の来賓のみなさんが、大会の討論に深く注目していただいて、大会で報告された活動をつうじて日本の党の姿がわかるという感想がこれだけよせられたのも、ほんとうに特徴的なことであります。

 それから、「オプティミズム、自信のある楽天主義が満ち満ちている」ということも、共通の印象になったようであります。また、「日本の社会に広く深く根をはっている党だということがよくわかった」という感想もうかがいました。なかには、「よく笑う国民だということがわかった」(笑い)。日本の国民はいつも笑って歩いているわけではないのですけれども、感動的な発言を聞いて、そこに自分たちの共感があり、しかも活動の楽しさ、愉快さがあらわれていると、おのずからおおいに笑うわけでありまして、そのこともわれわれの活動のロマンある連帯性であります。そこに注目していただいた代表もいました。

 私はそこで、来賓のみなさんに申しあげたいのですけれども、言葉の制約にはなかなか大きいものがありますが、あなた方が、そういう制約をこえて、大会の討論の核心、一番の中心点を見抜いていただいたその眼力にたいして、そしてまた最後まで大会にむけていただいた温かい連帯のまなざしにたいして、心からの感謝と敬意をこめて(長い拍手)、私たちからの連帯のあいさつをおくりたいと思います。

 それで私は、このあいさつの後で、「これが大会のすべての構成員の共通の気持ちであることを確信している」といおうと思ったのですけれども、これも先取りというか、“打てば響く”、みなさんが拍手で表明していただきましたから、あえてくりかえしません。(拍手

 この大会の方針が、二十一世紀にむけて、政権をになう党への発展・成長をかちとり、「国民が主人公」の日本をつくりあげる指針になることは、大会のすべての討論が証明したと思います。この方針がきょう、大会で決定されたあとは、全党的な徹底と全党的な実践の仕事にただちにかからなければなりません。

 大会を構成するすべてのみなさんの努力と奮闘をねがって、結語を終わるものであります。(長い拍手


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