日本共産党

2002年2月3日(日)「しんぶん赤旗」

どうなってるの?

イスラエルとパレスチナのオスロ合意


 パレスチナ過激派のテロを口実にしたイスラエル軍のパレスチナ自治政府に対する攻撃で、中東和平に新たな局面を開いた九三年の「オスロ合意」が重大な危機に陥っています。「オスロ合意」とは何か、今、パレスチナ・イスラエル関係はどうなっているのか――。

合意の内容は?

 一九九三年九月、イスラエル政府とパレスチナ解放機構(PLO)によって結ばれた和平への枠組みをとりきめた合意です。ノルウェーの首都オスロで主に協議されたことから「オスロ合意」とよばれています。これは、(1)イスラエルとPLOの相互承認にかんする交換書簡(2)五年間のパレスチナ暫定自治とイスラエル占領地の最終的な将来を決める交渉の枠組みを定めた「暫定自治取り決めについての原則宣言」の二つからなります。

 交換書簡では、PLOのアラファト議長がイスラエルの生存権、つまりイスラエル国家を承認し、テロを取り締まり、紛争を平和的に解決する決意を明確にしました。イスラエルのラビン首相(当時)は、PLOをパレスチナ人の正式代表として認め、交渉開始の意思を表明しました。

 「原則宣言」は、「五年を超えない移行期間の間に、西岸とガザに暫定自治政府、すなわち選挙で選ばれる評議会をつくり、(イスラエル軍の占領地からの全面撤退を決めた)国連安保理決議二四二と三三八に基づく恒久解決に至る」(第一条)としています。

 そのスケジュールは、(1)イスラエル軍が西岸とガザから徐々に撤退する(2)西岸とガザでパレスチナ自治政府の長官と評議会の選挙を行い、暫定自治をすすめる(3)自治開始から三年目を迎える前に、エルサレム、難民、入植地、境界線などパレスチナの将来にかかわる重要な問題を解決する最終地位交渉を開始し、自治開始五年後には両者が歴史的和解を達成する、というものでした。

どんな点が重要?

 「オスロ合意」が結ばれた背景には次のような事情がありました。その一つは、PLOが八〇年代末までにイスラエル抹殺論を否定し、テロを闘争手段とするこれまでの路線の転換をおこない、国際的にも地位が高まる一方、湾岸戦争を機に中東紛争の解決を求める国際世論が高まったことがあります。イスラエル側も八七年に始まったパレスチナのインティファーダ(民衆決起)で、武力による他民族支配の永久化が不可能なことを悟ったことがあります。

 「オスロ合意」は、パレスチナの民族自決権を明記せず、国家建設も約束しない、国連決議の完全実施も明言しないなど、重大な弱点がありました。しかし、その一方で、半世紀にわたる戦乱を終結させ、パレスチナ人の悲願である国家建設も含めて交渉による問題の平和的解決への第一歩を切り開く歴史的なものでした。

実現なぜ困難に

 九四年の「ガザ・エリコ先行自治協定」、九五年の「暫定自治拡大協定」などでパレスチナの自治範囲が徐々に拡大、九六年にはパレスチナ評議会選挙と自治政府議長選挙もおこなわれました。

 しかし、イスラエル側には合意に反対する勢力も存在し、合意実施は容易ではありません。合意の具体化は遅れに遅れています。現在、占領地におけるパレスチナ自治・半自治区は42%にすぎません。最終地位交渉の実施も引き延ばされてきました。さらにイスラエルは、オスロ合意の精神に逆行し、ユダヤ人の入植を拡大してきました。イスラエルの平和団体ピース・ナウは、九三年から八年間で、占領地へのユダヤ人入植住宅は、62%も増えたとしています。こうした対応はパレスチナ人の不信、さらにオスロ合意そのものへの不信を広げる事態となっています。

 こうしたなかで合意に反対するパレスチナ過激派による無差別テロがエスカレート。イスラエル市民の不安も広がるなかで、これを口実にイスラエルは軍事攻撃を拡大しています。

 九六年のイスラエル総選挙前のイスラム過激派ハマスによる相次ぐ爆弾テロは、選挙で治安強化を掲げた和平反対派の右派野党リクードの勝利を導く一つの要因となりました。広がる相互不信の中で、繰り広げられる武力行使とテロの応酬は事態をさらに悪化させています。

いまどんな政局に

 昨年二月のイスラエル首相公選で首相に就任したシャロン・リクード党首は、選挙時からオスロ合意の死文化を狙ってきました。その後、ブッシュ米政権の対テロ報復戦争に便乗し、「アラファト議長はビンラディンと同じテロリスト」と決めつけ、パレスチナ自治政府も「テロ擁護勢力」と断定。最近では、八二年にアラファト氏を「抹殺しておけばよかった」(イスラエル紙マーリブ)とまで述べています。

 シャロン政権は、国際的非難を無視してアラファト議長の武力による軟禁を続けながら、パレスチナ過激派のテロ行為を口実に自治区占領などオスロ合意の公然とした破壊に乗り出しています。

 こうした逆流に対し、イスラエルでは占領地からの撤退を訴え、テロを糾弾する平和集会が昨年十二月から毎週開かれるなど、平和を求める新たな動きも出始めています。また、予備役軍人や高校生がパレスチナ人への弾圧に加担したくないと、兵役を拒否する動きも広がっています。


パレスチナ問題

 パレスチナ問題は、世界中に離散していたユダヤ人が19世紀後半、パレスチナへの移住を開始したことに始まります。1930年以降のナチス・ドイツによるユダヤ人迫害もあり、第二次大戦後、1947年の時点で、パレスチナのユダヤ人は人口の3割(約60万人)に達しました。国連総会は47年11月、パレスチナをパレスチナ人とユダヤ人の国家に分割する決議を採択しました。

 ユダヤ人側は翌年、当事者の合意がないまま、この決議を根拠にイスラエルの建国を宣言、アラブ諸国との第一次中東戦争が始まります。この戦争の結果、イスラエルは国連決議でもパレスチナ・アラブ人(パレスチナ人)側に付与された部分の半分を占領、70万人ものパレスチナ人が難民となりました。

 これ以降、56年、67年、73年の3回にわたって中東戦争がたたかわれ、イスラエルは領土を拡大、新たな難民が生まれました。

 2000年の統計で国連に登録されているパレスチナ人難民は370万人に達しています。


どうなってるの?

パレスチナ略年表

1947年11月 国連パレスチナ分割決議
1948年 5月 イスラエル独立宣言、第1次中東戦争
1964年    パレスチナ解放機構(PLO)結成
1967年 6月 第3次中東戦争
1987年12月 ガザ地区でインティファーダ(民衆決起)ぼっ発
1991年10月 マドリードで中東和平国際会議
1993年 9月 イスラエルとPLOが相互承認、パレスチナ暫定自治原則宣言に調印(オスロ合意)
1994年 5月 西岸エリコとガザ地区からイスラエル軍撤退、先行自治開始
1995年11月 イスラエルのラビン首相暗殺
1996年 1月 パレスチナ評議会(議会)選挙、自治政府議長選でアラファト氏当選
1998年10月 西岸からのイスラエル軍追加撤退などを定めたワイ協定調印
2000年 9月 野党リクードのシャロン党首がイスラムの聖地「神殿の丘」に入る、パレスチナ人とイスラエル軍が衝突
2001年 2月 イスラエル首相選でシャロン氏当選
      9月 イスラエル軍がアラファト議長の停戦順守命令を受け、攻撃の全面禁止を発表
     10月  パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が同組織の議長暗殺(8月)の報復としてイスラエルのゼエビ観光相を暗殺
     12月  パレスチナ過激派の自爆テロとイスラエルの軍事攻撃が激化
シャロン首相がアラファト議長との「関係断絶」宣言 アラファト議長、テロ停止呼びかけ


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