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原発の源流と日米関係(4)

原子力協定の攻防/湯川氏、抗議の辞任


 「本件発表は慎重を要する」。外務省の解禁文書(1955年3月18日付メモ)にある「本件」とは、同年1月11日、米国が日本政府に示した、対日原子力援助に関する口上書のことです。

 アイゼンハワー大統領が提唱した「原子力の平和利用」政策の具体化として、濃縮ウランや原子炉の提供が盛り込まれました。井口貞夫駐米大使はただちに、「日本においても推進するとの建前をとること内外共に時宜を得たる」(55年1月25日付公電)との見解を示します。

 しかし、「朝日」同年4月14日付で暴露されるまで、口上書の存在は極秘扱いでした。「原子炉建設に関する米国の協力に対する一部学界の反対ないし原子力問題に関する敏感な一般世論に無用の刺激を与えることを避けるため」(前出メモ)という理由からでした。

自主・民主・公開

 「科学者の国会」と言われる日本学術会議は、第五福竜丸事件が明らかになった直後の54年3月18日の原子核特別部会で、「自主・民主・公開」の原子力研究3原則を決めました。

 ところが原子力協定の米国案9条に「動力用原子炉(原発)についての協定が行われることを希望しかつ期待し、その可能性について随時協議する」との規定がありました。

 濃縮ウランも、原子炉も米国産。しかも、米原子力法に沿って機密保護まで求められていたのです。「自主・民主・公開」の3原則に真っ向から反する内容でした。

 財界は米国からの原子炉購入を強く主張しましたが、政府は9条の削除と機密保護条項の適用除外の要請を決断。「動力用原子炉に関する日米間協定の実施から独占的米国資本の導入を誘致し、またわが方の学術的研究の自主性を毀損する恐れある云々との有力にしてかつ多分に感情的なる意見をも考慮」(55年6月7日、井口大使宛て公電)した結果でした。

慎重でなければ

 55年11月、原発建設を前提としない「日米原子力研究協定」が調印されました。

 自立的な原子力研究が担保されたかに思われましたが、初代原子力委員長に就任した正力松太郎氏は56年1月4日、「5年後に原発建設、米国と動力協定の締結」構想を発表しました。14日には米原子力委員会のストローズ委員長が「正力構想」に対する異例の「歓迎」声明を出しました。56年末には原子力協定見直し作業が始まります。

 これに抗議して原子力委員を辞任したのが、日本人初のノーベル賞受賞者の物理学者・湯川秀樹氏でした。湯川氏は辞任直前、こう訴えました。「動力協定や動力炉導入に関して何等かの決断をするということは、わが国の原子力開発の将来に対して長期に亘って重大な影響を及ぼすに違いないのであるから、慎重な上にも慎重でなければならない」(『原子力委員会月報』57年1月号)

 しかし、原子力委員会は歴代自民党政権に牛耳られ、安全性を二の次にした原発推進機関に変貌してしまいました。

 (つづく)

(「しんぶん赤旗」2011年6月10日)

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