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原発の源流と日米関係(2)

中曽根と正力/つきまとう諜報の影


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中曽根康弘氏=首相時の1985年10月

 2億3500万円。日本で初めて計上された原子炉築造予算の金額です。

ウラン235

 1954年3月3日、中曽根康弘衆院議員(後の首相)らが中心となり、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。

 ビキニ水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びた直後で、被ばくの事実が暴露される約2週間前でした。

 2億3500万円という数字にどういう根拠があったのか。中曽根氏は、著書で「(核燃料となる)ウラン235の二三五ですよ(笑い)」(『天地有情 五十年の戦後政治を語る』1996年)と述べています。

 当時、日本では原子力の研究体制さえなかった時代。日本初の原子力予算が何の根拠もなかったことを示しています。

 こうした暴挙に、マスメディアや学界からは「札束で学者の頬をひっぱたくものだ」という批判が噴出しました。

 なぜ中曽根氏が推進の先頭に立ったのか。そのカギは、前年に開かれたハーバード大学の「夏季国際問題セミナー」にありました。

 中曽根氏(当時、改進党)は、「マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属して、国会や各党に出入りして情報活動をしていた」(前出の著書)人物からもちかけられて、このセミナーに参加します。セミナーを統括していたのは後の大統領補佐官・キッシンジャー氏。中曽根氏はセミナー後、米国の原子力施設を見学するなどし、原子力研究に慎重な日本の学界の状況を「政治の力で打破する」(同)と決意したといいます。

世論誘導図る

 米原子力戦略に従い、日本への原発導入に積極的に動いたのは、中曽根氏だけではありません。その一人が、当時、読売新聞社主で日本テレビ社長だった正力松太郎氏(後に政府の原子力委員会初代委員長)です。

 第五福竜丸事件を契機に原水爆禁止の世論と運動が全国に燃え広がる中、“総理大臣への野望”を抱いていた正力氏は、政治的求心力を得るため原子力に着目。新聞とテレビをフルに使って「原子力の平和利用」キャンペーンに打って出ます。

 正力氏は55年5月、米国から、世界初の原子力潜水艦ノーチラス号を製造したジェネラル・ダイナミックス社のホプキンス会長らを「原子力平和利用使節団」として招聘。同年11月から「引き続き巨費を投じて米国務省と協同で原子力平和利用大博覧会を全国で開催」し、「それを読売新聞と日本テレビの全機能をあげて報道し、世論の一変を期した」のです。(正力氏の証言、『原子力開発十年史』65年)

 正力氏の腹心、柴田秀利氏(後の日本テレビ専務)は、米政府の情報員とたびたび接触。その中で柴田氏は「日本には昔から、“毒は毒をもって制する”という諺がある。…原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ」ることが必要だと提案したことを明らかにしています。(『戦後マスコミ回遊記』85年)

 (つづく)

(「しんぶん赤旗」2011年6月8日)

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