2006年9月28日(木)「しんぶん赤旗」

韓国・パキスタンを訪問して

志位委員長の報告(大要)(上)


 日本共産党の志位和夫委員長が二十五日、東京都内の党本部で「韓国・パキスタンを訪問して」と題しておこなった報告(大要)を二回に分けて掲載します。


 お集まりのみなさん、こんにちは。CS通信をご覧の全国のみなさんにも心からのあいさつを送ります。ご紹介いただきました日本共産党委員長の志位和夫です。

 私は、日本共産党代表団の団長として、九月五日から十日まで韓国を訪問しました。つづいて九月十六日から二十一日までパキスタンを訪問しました。この二つの訪問は、それぞれの代表団の全員の協力で大きな成果をあげることができましたが、代表して私が二つの訪問について報告をいたします。

韓国訪問について(9月5日〜10日)

訪韓の目的と日本共産党代表団の活動の概要

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(写真)報告する志位和夫委員長=25日、党本部

 まず韓国の訪問についてです。

 はじめに、訪韓の目的と日本共産党代表団の活動の概要についてのべます。私たちは、今回の訪韓にさいして、二つの目的をもってのぞみました。

 一つは、九月七日から十日に開催された第四回アジア政党国際会議へ出席し、参加政党の一員として、国際会議の成功に貢献することであります。今年三月に、国際会議の準備委員長と事務総長がそろってわが党本部にみえて、私への招待があり、参加することにいたしました。

 いま一つは、日本共産党の党首としては、初めての訪韓となりますので、韓国の政界、国民各界の方々との交流をおおいにおこないたいと考えました。そのために会議の始まる二日前の九月五日に訪韓して、交流のための日程をたてました。

 韓国政界との交流については、韓国政界の全体との交流の道を開くということを、とくに心がけました。韓国にも、さまざまな立場の政党があり、内政・外交の問題での激しい対立もあります。日本共産党に会うということは、何しろ初めてですし、十年余り前までは外国の共産党との交流が禁止されていた国でもあり、微妙な問題です。ですから特定の政党ではなく、国会に議席を持つすべての政党にごあいさつにうかがい、交流を開くという立場でのぞみました。

 与党の開かれたウリ党、野党のハンナラ党、民主党、民主労働党、国民中心党という主要五党のすべての代表、院内代表とお会いしました。最初は、アジア政党国際会議の主催国の政党への、表敬を込めたあいさつというつもりでうかがったのですが、どこでも温かく歓迎され、儀礼的なあいさつにとどまらず、政治的中身の濃い会談となりました。しかも、すべてがメディアにフル・オープンで公開されて、会談がおこなわれるのです。最初から最後までテレビカメラにかこまれ、メディア注視の中での会談となりました。ウリ党や民主党は、党のホームページに私たちとの会談のやりとりの全文がすぐに掲載されていました。そのぐらい徹底的に公開された、気持ちのよい開かれた場での会談となりました。

 私たちは、韓国国会も訪問しました。林采正(イム・チェジョン)国会議長と、つっこんだ会談ができました。この会談の中身については後で立ち入って報告しますが、四十五分間に及ぶ充実した内容のものとなり、たいへんに率直かつ友好的で心が通う印象深いものとなりました。

 韓国政府との関係では、盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が私たちの訪韓中、フィンランドで開かれたASEM(アジア欧州会議)の会議などに出席するために外遊中で、残念ながら大統領にはお会いすることはできませんでした。しかし、韓明淑(ハン・ミョンスク)首相とは、国際会議のさいの首相主催の夕食会であいさつを交わす機会がありました。これはたくさんの国の代表団がつめかけているなかでのあいさつですから、私は短時間のあいさつしかできないだろうと思って、わずかばかり覚えた韓国語で(笑い)話しかけました。そのときの会話はこういうものでした。

 志位「こんにちは。私は日本共産党委員長の志位和夫です」。(志位氏が韓国語で話すと、会場から笑いと拍手)

 韓首相「お会いできてうれしいです」。

 志位「今後、わが党と貴国の関係が発展することを願っています」。(志位氏が韓国語で話すと、会場から「ほう」という声)

 韓首相「私もそう願っています」。

 会話はこれだけなのですが、実はこの会話は、私のほうでは自分が何をいっているかはわかっているのですが、相手が何を答えているのかは、心ではだいたい感じていたのですが、聞き取れないのですね(笑い)。となりで通訳の面川さんが聞いていてくれて、後で会話が成立していたことを知ったというのが(笑い)、この出会いでした。

 私たちは、韓国国民の各界のみなさんとも可能な限り交流をすすめたいと考えました。韓国の著名な歴史学者で知識人として国民の尊敬を集めている姜萬吉(カン・マンギル)高麗大学名誉教授、日韓歴史共同研究委員会で韓国側の委員長をしている趙珖(チョ・グァン)高麗大学文科大学長とお会いし、歴史問題についてつっこんで意見交換する機会が持てたことは、私たちにとって知的収穫の多いものでした。

 延世大学の学生・院生のみなさんとの交流は、私にとって素晴らしい体験でした。これはこの大学の史学科の金聖甫(キム・ソンボ)教授が、交流の場をつくってくださって実現したものでした。私たちが行ってみますと大きな張り紙がしてあって、「特別講義――東アジアの未来のための対話」と書いてあります。学生・院生のみなさんがつぎつぎにつめかけて、教室いっぱいに六十人の参加で立ち見も出る盛況ぶりでした。

 私がまず、「日本共産党はどんな党か、何をめざしているのか」と題して、歴史問題、わが党の綱領、外交活動について四十分ほどかけて講演し、後は、自由な一問一答となりました。学生・院生のみなさんからの質問は、「在日米軍をどう考えているのでしょうか」、「在日韓国人の権利の問題にどう対応されているのでしょうか」、「天皇制についてどう見ているのでしょうか」、「日本の右傾化について心配しているがどう考えられますか」、「日本共産党の党建設はどのようにおこなわれているのでしょうか」(笑い)。一つひとつがよく考えた真剣な質問でした。私は、その一つひとつに丁寧に答えました。

 最後は、金聖甫教授が学生に感想を求めました。ある女子学生がこう言いました。「日本共産党の役割は小さいと思っていたが、草の根で国民と結びついていることは素晴らしい」。またこういう感想もありました。「私たちと多くの共通点があった。いまは日本に共産党があるのがうらやましい」。

 最後に、金聖甫教授が「今日のお話を聞いて、みなさんが日本共産党に入りたいと思っても、残念ながら資格がありませんから」(笑い)というジョークを言うような、温かい雰囲気の中で二時間の交流が終わりました。私は、韓国の未来を担う若い人たちと、初対面にもかかわらず、こんなにも心を開いた対話ができたことに、たいへん感動しました。最後に、私が「韓国の未来をになう若いみなさんと語り合うことができ、ほんとうに幸せです」とのべますと、若いみなさんは大きな温かい拍手を送ってくださいました。

 私は、九月七日夕方にもった在韓日本メディアとの会見で、これらの交流の内容を紹介しながら、「日本共産党代表団のこうした活動の全体を通して、日本共産党と韓国との交流の太い道が開かれた訪問となったと思う」とのべましたが、これが全体を通しての実感であります。

歴史問題の解決が、日韓の真の友好の土台

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(写真)西大門刑務所歴史館を朴慶穆(パク・キョンモク)館長(右から 2人目)の案内で、見学する志位和夫委員長(右から3人目)。 韓国メディアのカメラが終始追いかけた=5日、ソウル

 つぎに交流の内容の報告にすすみたいと思います。

 すべての交流で共通して痛感したことは、歴史問題の解決――日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配への反省が、日韓のほんとうの友好関係を築く上で土台であるということであります。

 韓国は、一九一〇年から一九四五年までの三十五年間、日本帝国主義による植民地支配によって、「国がなくなってしまった」という痛苦の経験を持っています。その苦しみや傷あと、怒りは、深いものがあります。これは小手先細工のごまかしがきくようなものではないと、私たちは感じました。同時に、韓国国民の多くが、日本との未来に向けた友好を切実に願っていることも感じました。日本が、過去の誤りに真摯(しんし)に向き合い、この国の人々が被ってきた歴史的苦難を深く理解してこそ、未来に向かって韓国のみなさんと心を開いた交流が可能になると、全体を通して痛感しました。

西大門(ソデムン)刑務所歴史館を訪問して

 私たちは九月五日、韓国に到着してすぐに、西大門(ソデムン)刑務所歴史館を訪問し、日本帝国主義の植民地支配に抵抗して犠牲となった朝鮮の愛国者に追悼の献花をいたしました。私たちが車から降りて、歴史館の入り口に向かって歩いていきますと、五十人ものマスメディア陣がたくさんのテレビカメラを持って待ち構えています。同行した「しんぶん赤旗」の記者の一人は、「有名な方が来ているのか」と思わず後ろを振り返ったそうですが、私たちを出迎えた取材陣でした。韓国のマスメディアは、私たちのこの行動の一挙手一投足に注目し、一時間以上かけた歴史館の見学は五十人ものマスメディアに取り囲まれながらのものになりました。

 この刑務所は、一九〇八年、韓国の植民地化の過程で日本によって建造され、数多くの独立運動家が投獄され、迫害された場所です。朴慶穆(パク・キョンモク)館長の説明では、「一九四五年までに約四万人が投獄され、四百人から四千人が亡くなった」といいます。私が、「亡くなった方の数にずいぶん幅がありますね」と聞きますと、日本の敗戦時に、日本帝国主義が証拠書類を燃やしてしまって、実際に亡くなった人の数は正確にはわからないということでした。

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(写真)西大門刑務所歴史館前で、志位和夫委員長らを待ち 受ける韓国メディアのカメラマン=5日、ソウル

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(写真)「3・1デー朝鮮民族解放 記念日をいかにたたかうべき か」と訴える1932年3月2日 の「赤旗(せっき)」

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(写真)「朝鮮台湾等の植民地の完全 なる独立」を訴える1931年3 月1日の「赤旗(せっき)」

 展示はたいへんに衝撃的なものですが、動かせない事実をもって過去の暴圧を告発しています。日本帝国主義が、一八九四年から九五年の日清戦争、一九〇四年から〇五年の日露戦争を通じて、朝鮮半島を力ずくで植民地にしていったこと、それに反対して韓国民衆のたたかいが繰り返し力強く起こったこと、それを日本帝国主義が、残虐極まりない弾圧、拷問、処刑をもって迫害したことなどが、展示されています。

 これは歴史館の日本語版のパンフレットですが、この歴史館には死刑場がそのまま保存してあります。死刑場は、高い塀で囲まれた刑務所の中でも、さらに高さ五メートルの塀に囲まれ、内部に死刑執行いすがあり、当時使われていた太い縄がつるされていました。死刑場のすぐ横には、屍躯門(シグムン)とよばれた、遺体を刑務所の外の共同墓地に捨てるための秘密通路があります。三、四百メートルはあろうかという暗い通路ですが、遺体を運んで闇から闇に葬ったのであります。私たちは、慄然(りつぜん)とする思いで、一つひとつを時間をかけてみました。

 私は、見学と献花を終えた後、韓国メディアに求められてのインタビューで、「訪韓して最初にここに来ようと思った理由は何ですか」と問われて、「理由は二つあります」として次のように答えました。

 「一つは、日本帝国主義の植民地支配の野蛮な弾圧、拷問、処刑、それに抗してたたかい抜いた朝鮮の愛国者に心からの敬意と追悼の気持ちを表すためです。私たち日本共産党は、一九二二年に党を創立しましたが、党をつくった当初から朝鮮の愛国者とともに植民地支配に反対を貫き、朝鮮独立のたたかいに連帯してたたかった歴史をもっていることを誇りにしています。そういう党を代表して、私は、この場で、私たちのいわば“歴史的同志”に対して敬意と追悼の気持ちをのべたいと思います。

 同時に私は、二十一世紀の日韓両国民のほんとうの友好を願って、この場に来ました。日本にとっては、これは恥ずべき過去ですが、誤った過去に正面から向かい合ってこそ、アジアにほんとうの友人を得ることができると、私は信じております」

 インタビューを終えて、朴慶穆館長と懇談したさいに、私は、一つの歴史的文書のコピーをお渡ししました。今日、ここに持ってまいりましたが、一九三一年の三月一日付の「赤旗(せっき)」と、一九三二年三月二日付の「赤旗(せっき)」です。

 そこには、一九一九年三月一日に朝鮮全土で起こった「三・一運動」――独立を求める大闘争を記念して、朝鮮独立闘争への連帯を烈々と訴える論説が載っています。それはいま読んでも胸を打つものです。一九二三年の関東大震災のさいに、多くの在日朝鮮人が虐殺された歴史を「恥ずべきこと」だと想起しながら、「植民地の被圧迫民衆を解放することなくして、本国のプロレタリアートの解放はあり得ない」と訴えています。ここにはつぎのようなスローガンが掲げられています。「朝鮮独立運動三・一記念日万歳」、「朝鮮農民に朝鮮の土地を返せ」「打倒 日本帝国主義」、「朝鮮、台湾、中国の植民地及び半植民地民族の完全なる解放」。

 朴慶穆館長にこれをお見せしますと、目をみはって、「朝鮮と日本が団結して、帝国主義を倒そうということですね。いただいた資料はしっかりと保管して、しっかり見させていただきます」とのべました。私が、「この『赤旗(せっき)』は、戦後大きく発展し、最近、『しんぶん赤旗』として創刊二万号を迎えました」と話すと、報道陣から「オー」という声があがりました。

 私たちは、戦前のこの「赤旗」のコピーを、歴史学者のみなさんとの懇談でも、学生・院生のみなさんとの交流でも紹介しました。どこでもあの植民地時代に、日本に朝鮮の独立闘争に連帯する勢力があったのかと、驚きとともに、「新しい日本を発見した」という共感をもって受けとめられました。つまり、この「赤旗」は、わが党と韓国国民の友情にとっての「歴史的証明書」となったのであります。(拍手)

 一九三一年といいますと七十五年も前のことです。七十五年前にこの論説を書いた私たちの先輩たちは、まさか世紀を超えて、この論説が韓国でこういう形で紹介されるとは、予想もしていなかったでしょう。しかし、真実と正義に立つものは、歴史の試練に耐えて必ず生命力を発揮する、その積み重ねの上に私たちの活動が支えられている――私は、わが党の党史の持つ生命力に深く感動しました。私たちのいまの行動も、未来にわたって歴史の検証に耐えうるものでありたいとの思いを強くいたしました。

 訪韓初日の私たちの西大門刑務所歴史館訪問を、韓国メディアは大きくとりあげました。MBC、SBSなどのテレビ各局が、解説入りで私の発言を放映しました。MBCというテレビ局――ドラマ「宮廷女官 チャングムの誓い」を放映したテレビ局ですが――ここは、私たちの活動をこう伝えました。「西大門刑務所を訪れた日本共産党の志位和夫委員長は展示物を一つひとつきちんと見回しながら独立運動に対して深い関心を表しました」。さらに、見学のなかで、私が、一九一〇年の韓国併合のさいに、韓国を日本に売り渡した当時の韓国首相の李完用(イ・ワニョン)という人物の写真を指さして、「民族反逆者ですね」とのべ、案内の女性が「はい、韓国では……」と説明するシーンを流しました。そして記者は、「(志位委員長は)日本が過去の過誤を直視しなければならないと語り、靖国神社参拝問題や教科書わい曲問題など、懸案に対しても右傾化する日本政界の主流とは違って、反対の立場を明確に示しました」と報じました。

植民地支配の傷跡の深さ、日韓友好への願い

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(写真)握手をする韓国国会の林采正(イム・ チェジョン)議長(右)と志位和夫委 員長(左)=6日、韓国国会議長室

 翌日の九月六日からは、韓国政界との交流、各界の人々との交流が本格的に始まりましたが、どこでもほとんど例外なく、歴史問題が重要な主題となりました。いくつか強く印象に残ったことを報告したいと思います。

 一つは、植民地支配がこの国の人々に残している傷あとの深さです。日本の政界の一部で生まれている歴史をゆがめる動きへの怒りの激しさです。そして韓国の人々が、そうした自分たちの思いを日本の国民に理解してほしい、そしてほんとうの日本との友情をつくりだしたいと、真剣に願っているということであります。

 九月六日の林采正(イム・チェジョン)国会議長との会談でも、私たちはそのことを強く感じました。林采正議長が冒頭にのべたのは、私たちの西大門訪問と献花についてでした。林采正議長は、つぎのようにのべました。「私は、感無量です。韓国国民の立場からすると深い悲しみの地を訪問され、しかも献花されたことに感謝の気持ちでいっぱいです。韓国国民を代表して感謝します」。この言葉には、逆に私たちが感謝の気持ちで深く心を動かされました。

 同時に、林采正議長は、日本の自民党指導者が歴史をわい曲する行為をおこなっていることに、きびしい批判をのべました。そして、それを強調しているのは真の未来関係のために必要だからだと繰り返しのべました。私は、その発言を受けて、わが党の戦前の歴史、今日、靖国問題などでとっている立場を説明しました。そうしますと、林采正議長の口から出てきたのは、「心からのねぎらいの意となぐさめの意を十分に受け止めています」、「非常に心が癒やされる思いがします」という言葉でした。「ねぎらい」「なぐさめ」「癒やされる」――この言葉は私の耳に深く残っています。

 林采正議長はこうもいいました。「日本が、志位委員長が簡潔かつ明確にいわれたような植民地支配と侵略行為について明らかな態度をとっていれば、いまのような北東アジアの緊張関係はなかったし、平和に向かって素晴らしい北東アジアになったでしょう」。

 議長は、最後に、「初めてお会いしたのに、非外交的なことを申し上げましたが、理解していただけるみなさんだと思ったので、あえて申し上げました」とのべました。私は、「たいへんに外交的(な言葉)です」と応じましたが、これも私たちの心を打つ言葉でありました。

韓国と靖国問題について

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(写真)姜萬吉(カン・マンギル)高麗大学名誉教 授(右)らに靖国神社・遊就館の資料を見 せる志位和夫委員長(左)=6日、ソウル

 二つ目は、靖国問題についてです。韓国では、国民も、政界もこぞって、日本の首相の靖国参拝に強く反対していますが、靖国神社の実態については、必ずしもよく知られているわけではありません。さまざまな会談や懇談の席で、靖国問題にかんするわが党の立場について質問を受け、わが党は、この問題の核心は、靖国神社の軍事博物館――遊就館の展示に示されているような「日本の戦争は正しかった」という歴史観、戦争観にあることを説明すると、「なるほど」という場面が多くありました。

 私は九月六日、歴史学者の姜萬吉高麗大学名誉教授と、つっこんで意見交換する機会がありました。姜萬吉さんは、高名な歴史学者であるとともに、軍事独裁政治とたたかった知識人としても知られ、党派をこえて尊敬を集めている碩学(せきがく)であります。実は、西大門刑務所は、一九四五年の後も、刑務所として使われ、軍事独裁政治に反対する政治犯への弾圧の場となりました。姜萬吉さん自身も、西大門刑務所に投獄されたことがあり、私とはその場でまず会い、車で移動しながら話し合い、さらに昼食をとりながらの会談となりました。

 姜萬吉さんは、南北の平和的統一をめざすためには、朝鮮解放運動の歴史を描くさいにも、民族主義の立場からの解放運動だけでなく、社会主義の立場からの解放運動も視野に入れてとらえる必要があるという立場にたって、歴史研究をすすめておられる方で、私も日本語で公刊されている一連の著作を読みましたが、教えられるところがたいへん多いものであります。姜萬吉さんは、北東アジアに平和の共同体をつくる必要がある、そのためにも日韓が歴史認識を共有する必要があるということも力説されておられますが、これは私たちの立場とも共通しています。

 姜萬吉さんとの会談のなかでも、靖国問題が話題となりました。私は、遊就館の展示物を本にした『遊就館図録』を持っていったので、現物を見せて、この神社の立場が、日清・日露戦争から、中国侵略戦争、太平洋戦争までの五十年戦争のすべてを、「アジア解放の正しい戦争」と賛美していることを指摘しました。とくに一九一〇年の韓国併合との関係では、日清・日露戦争の描かれ方が重要であります。『図録』には、「(日露戦争は)我が生命線である韓国の保護」のためだったという植民地支配美化論が堂々と書いてあります。姜萬吉さんは、日本語も堪能な方で、これを見るなり目をむいて驚きました。「これはいつ出された本ですか。いまですか」。戦前のものが復刻版で出されたと思われたようでした。私が「三年前です」というと、「いやー」と絶句されました。緒方さんが、その様子を見て、とっさに「差し上げます」といいました(笑い)。私が持っていったものは、昨年の国会で、小泉首相との論戦に使ったもので、重要な個所にアンダーラインがしてあるなど書き込みがあり、差し上げるのは失礼かとも思ったのですが、姜萬吉さんにそのことも申し上げると、「それも歴史的です。なおさら貴重なものです」(笑い)といってくれましたので、その場で差し上げました。

 私は、政党の指導者との会談でも、靖国問題のどこが問題かを問われて、同じ説明をし、「これは韓国、中国との関係の問題だけではありません。戦後世界の秩序の土台を否定するという点で、日本と世界の関係の問題であり、日本自身の問題なのです。そして侵略戦争と植民地支配に反対を貫いたわが党の存在意義にかかわる問題なのです。そういう立場で、私たちはきびしく歴史のわい曲に反対しています」とのべました。これはとくに昨年来、わが党がずっと主張してきたことですが、問題の本質が伝わると、この歴史の逆流に反対する大義が、より広い視野で共有されることを感じました。

「日本の右傾化」への危惧と、日本共産党への期待

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(写真)延世大学の「特別講義――東アジアの未来のための対話」で、大学生や院 生に講演する志位和夫委員長。活発な意見交流が続いた=6日、ソウル

 三つ目は、こうした歴史問題と一体に、憲法改定をはじめとする「日本の右傾化」への動きについて、韓国の多くの人々が強い危惧(きぐ)を抱いていることであります。このことは、政党指導者のみなさんとの会談でも、学生・院生のみなさんとの交流でも、韓国メディアの質問でも、共通して出されました。

 安倍晋三氏が自民党総裁に選出されそうだということについても、多くの韓国国民が不安と懸念を持っていることが感じられました。学生・院生との対話でも、安倍氏についての質問が出されました。「志位さん、安倍さんをどう見てらっしゃいますか」。私は、昨年七月、テレビ朝日で安倍氏とおこなった対論を紹介し、私が、安倍氏に日本の侵略戦争への認識を問うたのに対して、安倍氏が「後世の歴史家が判断すること」と答えたとのべますと、教室いっぱいに失笑が広がりました。「とんでもないことだ。いったい何を勉強していたのか」というような失笑です。安倍氏が、その討論で、私の問いかけへの答えに窮して、「ローマ帝国の時代、カルタゴの将軍ハンニバルは、大軍団を率いてアルプスを越え、ローマに進軍したが、それを単純に侵略戦争とはいえないでしょう」との詭弁(きべん)を使ってのがれようとしたことを紹介すると、教室中が爆笑となりました。

 ただ同時に、日本の平和運動の力は弱いのではないか、日本は一路右傾化ではないかという不安がたいへん強いのです。ですから私は、「九条の会」が五千を超えて全国に広がっていること、日本共産党が草の根で国民と結びついてその一翼を担っていることなどを話しました。そういうやりとりのなかで、「日本にも平和を守る勢力が存在し、広がっていることを、初めて知った」という反応も少なくありませんでした。同時に、平和のために、日本共産党がさらに力を持ってほしいという強い期待が、多くの人々から寄せられたことを報告したいと思います。

 私は、韓国でもそのことをのべましたが、日本国憲法第九条は、あの悲惨なおびただしい犠牲をもたらした侵略戦争の反省の上に立って、「日本は二度と戦争をしない」という国際公約であり、これを守りぬくことは、私たちの世界とアジアに対する責任だということを、あらためて強く決意しております。

日韓のどんな懸案事項も歴史問題の解決が土台――竹島問題を考える

 四つ目に、日韓の間にあるどんな懸案事項を解決するうえでも、歴史問題で日本が誠実な態度をとること――侵略戦争と植民地支配への反省をきちんとおこなうことが、冷静な話し合いを成り立たせる基礎になることを痛感いたしました。

 たとえば、日韓の間には、竹島――韓国では「独島(トクト)」と呼ばれている島の領有をめぐる問題があります。韓国では、国民のおそらく99%以上が、「独島」は韓国の領土だ、日本帝国主義の侵略によって最初に奪われた領土だと考えています。九月五日におこなった西大門での韓国メディアとのインタビューでも、この問題への態度が問われました。九月七日におこなったハンナラ党の金炯旿(キム・ヒョンオ)院内代表との会談でも、「この問題についても理解してほしい」と要請されました。

 私は、「この問題は、靖国問題などとは違った事情があります。わが党は、一九七七年にこの問題についての見解を発表していますが、竹島(独島)の領有権を日本が主張することには、歴史的な根拠があるとそのなかでのべました」と、まず私たちの立場を率直に伝えました。ハンナラ党の金炯旿午院内代表との会談では、私がそこまで言いますと、「共産党がですか」と聞き返してきました。会談は一瞬、緊張しました。私は、「そうです」と答えるとともに、「わが党は同時に、竹島の日本への編入が、一九〇五年という韓国の植民地化の過程でおこなわれたこと、当時、韓国はすでに外交権を剥奪(はくだつ)されており異議をいえる立場になかったことを考慮し、韓国側の言い分も検討しなければならないと考えています。植民地支配への反省を土台において、まずこの島をめぐる歴史的な認識を共有するための両国の共同研究をおこなってはどうでしょうか」とのべました。そうしますと、先方から、「いいお話をありがとうございます。植民地化の過程については、私の方からあえて申し上げなかったのですが、それについて志位さんのほうから言及されたというのは、非常に意味のあることだと思います」との答えが返ってきました。この会談は、一瞬の緊張はありましたが、最後はたいへん友好的な雰囲気で終わりました。

 竹島問題は、日韓間で非常にこじれている問題ですが、私は、この会談を通じて、こじれにこじれた糸をときほぐす道が見えたように思えました(拍手)。一九六五年の日韓基本条約の締結にいたる過程で、日韓両国政府間で竹島領有をめぐって往復書簡による論争があります。その論争の過程でも、また今日においても、日本政府は、韓国併合――植民地支配を不法なものであったと認めていません。それを認めないもとで、竹島の領有権を主張するから、韓国国民の側からは、この問題が「侵略の象徴」となってしまうのです。ですから韓国政府は、この島の領有権をめぐっては話し合いすら拒否するという状況にあります。日本政府が、植民地支配の不法性、その誤りを正面から認め、その土台のうえで竹島問題についての協議を呼びかけるなら、私は、歴史的事実にもとづく冷静な話し合いが可能になると、これらの交流を通じて痛感したしだいです。

北朝鮮問題、南北の平和的統一、北東アジアの平和について

 歴史問題と並んで、交流の中でわが党の立場について質問されたのは、北朝鮮問題でした。政治会談でも議論になり、韓国メディアからも問われました。私は、わが党の見地について、二つの角度からよく理解してもらうように心がけました。

北朝鮮問題をどう語ったか――二つの角度から

 一つは、日本共産党が、北朝鮮による国際的な不法行為――一九八三年のラングーン爆弾テロ事件、八四年の日本漁船への不法な銃撃・拿捕(だほ)事件、八七年の大韓航空機爆破事件、七〇年代からの日本人拉致事件などについて、きびしい批判的な立場を貫いてきたということであります。私たちが一連の不法行為を「社会主義とは無縁だ」と批判したのに対して、朝鮮労働党が「敵に加担する」ものだと攻撃したため、一九八〇年代前半以降、両党関係が断絶にいたっていることも話しました。

 同時に、いま一つは、今日、北朝鮮問題が北東アジアの平和と安定にとって重大な焦点となるもとで、わが党が、この問題を冷静な平和的・外交的努力によって解決をはかろうとしているということも話しました。一九九九年の国会で、不破哲三委員長(当時)が日朝両政府間の交渉ルートを無条件で開くべきという提案をおこなったこと、それがやがて二〇〇二年の「日朝平壌宣言」につながったこと、わが党が、この「宣言」を支持し、ここに明記された拉致問題、核・ミサイル問題、過去の清算の問題を、包括的に解決すべきだと主張してきたこと、その後の紆余(うよ)曲折や逆行もあるが、今後もこの「宣言」を両国政府が順守して国交正常化への道を開くことが大切だとのべました。

 この二つの角度からのわが党の立場の説明は、いまの韓国国民の気持ちとも合ったものとして、理解されたと思います。韓国国民も、北朝鮮のさまざまな不法行為に強い批判をもっています。日本共産党が、北朝鮮の朝鮮労働党とはまったく違う党だと知ると、まず安心します。同時に、北も南も同じ民族であり、多くの韓国国民は、南北の平和的統一を強く願っています。ですから、北朝鮮を一本調子で力ずくで追い詰めるような立場は理解されませんし、ましてや北朝鮮の「体制打倒」論や、日本の政界の一部で言われた「敵基地攻撃」論などには、強い批判があります。北朝鮮の不法行為はきびしく批判しつつ、いかにしてこの国を国際社会の責任ある一員にするかという立場は、日本共産党がとってきた立場ですが、この立場は、韓国国民のみなさんの気持ちとも合致していると感じたしだいであります。

南北の平和的統一を促進する国際環境を

 同時に私たちは、交流のなかで、朝鮮半島の南北統一問題に日本がどう向き合うかということも、いろいろと考えさせられました。

 私が、林采正国会議長との会談でも、政党の党首との会談でも、歴史学者との会談でも、共通して要請されたことがあります。それは「南北の平和的統一に、日本はもっと協力してほしい」という要請であります。

 南北の統一は、もちろん朝鮮民族自身の手によって自主的に解決されるべき問題であります。同時に、平和的統一が実現するような国際的環境をつくるうえで、日本はその重要な責任の一端を担っていると思います。

 なぜ朝鮮半島が南北に分断されたのか。そこには、さまざまな歴史的要因が働いています。南北分断を固定化したのは、一九五〇年から五三年までの朝鮮戦争でした。しかし、南北分断の出発点となったのは、一九四五年の八月十五日の日本の敗戦にともなう、米ソによる北緯三八度線を境にした分割占領でした。朝鮮は、敗戦国の植民地として終戦を迎えました。このことが南北分断へとつながったのは、まぎれもない歴史の事実です。

 韓国国民からすれば、一九一〇年に日本に植民地にされ、たいへんな辛酸と苦痛を味わい、さらに日本が一九三一年に中国への侵略戦争を始めたらその兵站(へいたん)基地として、さらに過酷な搾取と強制動員の犠牲をしいられ、そのあげく日本が一九四一年に無謀な太平洋戦争に突入して敗北したら、敗戦国の植民地として南北に分断された。こういう思いがあります。その意味では、私は、南北の分断の歴史的淵源(えんげん)をたどると、日本の植民地支配と無関係とはいえないと思います。

 日本政府は、こうした歴史的経緯からも、南北の平和的統一という朝鮮民族の悲願が実るような国際的環境をつくるうえで、重要な責任の一端を負っていると、私は、考えるものであります。

 私は、九月七日、開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長と会談したさいに、このことも念頭において、「ASEAN(東南アジア諸国連合)で起こっているような平和の共同体を、北東アジアにも広げることが大切です。そのためには、つぎの三つの枠組みを成功させることが大切だと思います」とのべました。

 一つ目は、六カ国協議を成功させ、朝鮮半島の非核化をなしとげ、この枠組みを地域の平和の機構に発展させることです。

 二つ目は、南北が、二〇〇〇年の「南北共同宣言」にもとづいて、平和的統一の事業を前進させることです。

 三つ目は、日朝両国政府が、「日朝平壌宣言」にもとづいて、諸懸案を解決し、国交を正常化することです。

 金槿泰議長は、「三つの課題に私も全面的に共感します。そのために貴党が大きな役割を果たすよう、期待いたします」と応じました。

 この三つの枠組みのうち、二つの枠組みは、日本政府が直接の当事者となっている枠組みです。この枠組みを成功に導くために知恵と力を尽くすことが、南北の平和的統一の事業を前進させる国際的環境をつくることにもなると、私は思います。日本政府は、そういう自覚ももって、ことにあたる必要があると思います。

なぜこの出会いが可能になったか――韓国社会の大きな変化

 このように、日本共産党と韓国社会との最初の本格的な出会いは、たいへんに内容の豊かなもので、重要な成功をおさめたといってよいと思います。私は、日本共産党の党首としては初めての訪問で、なぜこのような実りある成果をおさめることが可能になったかについて考えてみました。そこには、すでにのべてきたように、日本共産党の歴史や路線の生命力を感じます。同時に、韓国社会の大きな変化ということも感じます。両方が相まって、この出会いを可能にしたと思います。

 韓国は、戦後、「反共」を国是としてきた国です。また、軍事独裁政権が長く続いてきた国でもあります。しかし、韓国民衆の長年の命がけの民主化のたたかいにおされて、一九八七年に、後に大統領となる盧泰愚(ノ・テウ)氏自身が「民主化宣言」をおこないます。一九九〇年には、共産主義を禁圧していた国家保安法が一部改正され、「外国の共産主義者と交流、協力すれば犯罪になる」という条項が削除されました。二〇〇〇年には、南北首脳会談がおこなわれて「共同宣言」が交わされ、平和的統一への道が開かれてきました。もちろん、まだ国家保安法は存在し、「反共」の壁が完全に崩れたわけではないと思います。しかし、韓国はいま大きく、ダイナミックに変わりつつあります。民主主義がダイナミックに発展し、「反共」の壁は、少なくとも日本共産党との交流ではほとんど感じないほどまでに崩れつつあります。この変化は、今回の訪問で交流した各党のリーダーが、私たちとの会談のなかで異口同音に語ったことでした。

 開かれたウリ党の金槿泰議長と会談したさいに、議長は冒頭、こうのべました。「国会で志位委員長をはじめ日本共産党の幹部をお招きすることは感無量です。国民が直接、大統領を選ぶようになった一九八七年以前であれば、国家保安法違反になったと思います」。金槿泰議長は、民主化運動に参加したため、国家保安法違反で三十回も投獄されている経歴を持っている方です。

 民主党の韓和甲(ハン・ファガプ)代表と会談した時には、開口一番こう話されました。「共産党をお迎えしたのは初めてです。多分、二〇〇〇年に平壌で交わされた南北共同宣言がなかったら、みなさんに会うのは大変だったでしょう」。二〇〇〇年の「南北共同宣言」も、韓国社会が変わる大きな節目だったことを感じさせるものでした。

 民主労働党の文成賢(ムン・ソンヒョン)代表との会談では、冒頭こうのべられました。「わが国では、共産党という名前だけでも弾圧の対象になっていたのが、ついこの間なのですが、長い歴史をもった日本共産党にお会いできたのは、本当に感慨無量です」。

 アジア政党国際会議が始まってからの昼食会で、ハンナラ党の幹部との懇談になりました。この方は、「私たちは、平和的な共産党であればいつでも大歓迎です。スターリン的な共産党は反対です(笑い)。日本共産党ならいつでも協力します。実は、朝鮮戦争のせいで、私たちは共産党と聞くだけで逃げるくらいだったんですよ。私の子どものころは、共産主義者には角がはえていると思っていました」。そこで私は、「私の頭を触ってください」というと、先方は「見ただけでわかりますよ」。(笑い)

 日本共産党と韓国社会が、今回こうして出会えたのは、韓国国民がみずからのたたかいによって民主主義を前進させた、そのたたかいの結果でもあると思います。私は、韓国の新しい友人たちに、「あなたがたのたたかいが、この出会いを可能にしてくれた」と話しました。私は韓国を訪問して、みずからのたたかいによって、みずからの前途をきりひらいてきた韓国国民のエネルギーに尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。(拍手)

アジア政党国際会議について――二つの役割を果たした

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(写真)第4回アジア政党国際会議の全体会議で発言する志位和夫委員長=9日、ソウル

 九月七日夜から、アジア政党国際会議が始まりました。この会議は、マニラ、バンコク、北京につづく、四回目の会議となります。この会議は、アジアの合法政党が、与野党の区別なく一堂に会するという画期的な会議で、こうした会議を開いている大陸はアジアしかありません。アジアで起こっている平和の流れを象徴する会議であります。

 今回は、開かれたウリ党と、ハンナラ党の共同主催の会議となり、両党は主催政党として、たいへんな苦労をしながら、準備をしたようであります。結果として、アジアの三十六の国から、九十の政党代表が集まり、大きな成功をおさめた会議となりました。

 私たち日本共産党代表団は、参加した政党の一員として、会議の成功に貢献するため、二つの仕事にとりくみました。

全体会議での発言――「平和のアジア共同体をめざして」

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(写真)記念撮影する第4回アジア政党国際会議の参加者。前列左か ら4人目は志位和夫委員長=9日、韓国国会の正面入り口前

 一つは、発言です。全体会議では、各党が一回ずつ発言できます。私は、こうした国際会議への参加も発言も初めてのため、何を話したらいいか、夏休みのころからずいぶんと考えました(笑い)。二〇〇四年に北京でおこなわれた前回の会議では、不破議長(当時)が、「戦争のないアジア、戦争のない世界をめざして」というテーマで、二十一世紀を迎えて、国連憲章を中心に、平和の国際秩序をつくりあげることが世界の共通課題となっているという、大きなスケールの発言をしています。

 私は、それを土台にしながら、それ以後の情勢の進展も考えて、発言のテーマを「平和のアジア共同体をめざして」としました。つまり、この二年間の情勢の進展を考えますと、世界各地で、国連憲章にもとづく平和の国際秩序の新たな担い手として、自主的な地域共同体の動きが発展していることが、たいへん注目されます。それは平和の共同体という点では、このアジア大陸でもっとも目覚ましい前進が形づくられています。それは東南アジアでのASEANの発展や、上海協力機構(SCO)の発展にも示されています。これを北東アジアに広げ、中央アジア、南アジア、西アジア諸国とも連携し、平和のアジア共同体を築くために力を合わせようと訴えました。

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(写真)第4回アジア政党国際会議の歓迎レセプションで、会議を主 催する開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長(右から2 人目)、ハンナラ党の姜在渉(カン・ジェソプ)代表(右から3人 目)とあいさつをする志位和夫委員長=7日、ソウル

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(写真)アジア政党国際会議の歓迎レセプションで、 開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議 長(左)と懇談する、(右へ)志位和夫委員長、 インド共産党(マルクス主義)のイエチョリ 政治局員、緒方靖夫副委員長=7日、ソウル

 同時に、そのために日本がどういう役割を果たすべきかについて、つぎの五つの点での日本政府の外交の転換が必要だとのべました。

 一つは、過去の侵略戦争と植民地支配を正当化する逆流を克服することです。

 二つ目は、アメリカ一辺倒でなく、アジア諸国との平和の関係を探求する大戦略をもつことです。

 三つ目は、軍事偏重でなく、外交による問題解決に徹する姿勢を確立することです。

 四つ目は、いかなる国であれ覇権を認めず、国連憲章にもとづく平和秩序を守ることです。

 五つ目は、異なる価値観をもった文明間の対話と共存の確立に力をつくすことです。

 この国際会議のメーンテーマは「アジアの平和と繁栄」であり、サブテーマの一つは「アジア共同体の建設」でした。ですから、私たちがおこなった発言は、会議全体の趣旨とも響きあったと思います。私は、発言が終わった後、少なくない参加者から共感と祝福の声をかけられました。

 なお、時間の関係で、壇上での発言は五分以内とされ、発言の全文は文書で配布し、それを正式の発言として扱うとの説明でした。これは九十もの政党が全体会議で発言するうえでは当然のことなので、発言時間は厳格に守ることにしました。私の発言は、四分五十六秒で終わりました。日本の国会で短く発言することには慣れています(笑い)。これも苦労して会議を運営している議長団に、歓迎されたと思います。私たちは、マナーという点でも、会議の成功に貢献する姿勢を貫きました。

「ソウル宣言」をよりよいものに仕上げるために

 もう一つの仕事は、会議で採択される「ソウル宣言」をつくる過程で、それをよりよいものにするための働きかけや修正案の提起という仕事です。

 アジア政党国際会議の「宣言」という点では、前回の「北京宣言」は、国連憲章にもとづく平和秩序を力強くうたい、政党間の民主的関係の原則なども盛り込み、高い到達点を示していました。

 今回の会議で、常設委員会が最初に配布した「ソウル宣言案」を見ますと、「北京宣言」には盛り込まれていなかった新しい積極的な内容が含まれていますが、「北京宣言」に盛り込まれていた重要な内容が明記されていないなどの点もありました。私たちは代表団で相談し、会議全体の進行も考えて、端的で短い修正案を提起することにしました。それは、「ソウル宣言」の前文に、「過去三回の総会で確認された原則に基づいて」という一文を挿入することであります。たいへん短い一文です。しかし、これを挿入すれば、「北京宣言」の到達点がすべて再確認され、生かされたうえに、新しい積極的な命題が加わることになります。最終日に配布された「ソウル宣言」には、わが党の提案がそのまま採用され、私たちはたいへんうれしい思いでありました。(拍手)

 もう一つは、核兵器廃絶の問題です。いま北朝鮮やイランの核問題が、重要な国際問題となっています。私たちは、新しい核兵器保有国の出現にはもちろん反対ですが、核兵器の拡散防止だけになっては困ると考えました。そこで常設委員会のメンバーに、「ソウル宣言」に核兵器廃絶を明記するように、事前に働きかけをおこないました。この問題でも、「ソウル宣言」には、「われわれは、核兵器の包括的禁止と完全廃絶を全面的に支持」していると明記されました。これは「北京宣言」に比べても前進であります。核兵器保有国を持つアジアの政党会議で、核兵器廃絶をうたった決議が全会一致で採択された意義は大きなものがあります。日本の自民党も賛成したはずですから(笑い)、「核兵器の究極的な廃絶」などという先送りは、もはやするべきではありません。

 こうして「ソウル宣言」をよりよいものに仕上げるうえでも、わが党代表団は一定の貢献ができたと考えるものであります。

「朝鮮半島の平和と日韓の友好ウィハヨ(のために)」

 アジア政党国際会議では、政党間の交流にも可能なかぎりとりくみました。まとまった時間をとって会談したのは、インド共産党(マルクス主義)、ロシア共産党、インドネシア闘争民主党などであります。

 インドネシア闘争民主党は、野党第一党で、国政上に占める比重は大きなものがありますが、これまでわが党との交流がありませんでした。朝食をとりながら会談しましたが、この党との交流を確認したことは、ASEANのなかで二億人という最大の人口をもつ国との関係をつくるうえで、今後、力になってくると思います。

 韓国の政党とは、会議が始まる前に、交流の関係ができていますから、会議の中では韓国の国会議員との交流がどんどん広がります。

 一つ面白い経験をしました。インド共産党(マルクス主義)からは、イエチュリ政治局員が参加していました。四年前インドに行ったときに、世話になった旧知の友人です。ただ韓国訪問は初めてとのことでした。私も初めてですが、インド共産党(マルクス主義)のイエチュリ政治局員も初めてだったわけです。そこで国際会議が始まる直前に会談して意気投合した、開かれたウリ党の金槿泰(キム・グンテ)議長に、イエチュリ政治局員を紹介しました。そうしたら二人の話が弾むのです。というのは、金槿泰議長とイエチュリ政治局員は、お互いに弾圧で投獄された経験があります。イエチュリさんが「私は二十三回投獄された」といえば、金槿泰さんは「私は三十回だ」という。イエチュリさんは「あなたの方が私よりもすごい」という(笑い)。二つの党が友人となる「仲人役」をしたのは初めてのことですが、これはとても楽しくうれしい経験でした。

 晩餐(ばんさん)会などでは、日本からは党首の参加がほかにあまりいなかったせいか、ずいぶんと上席に案内され、韓国各党の首脳と同じテーブルなので、会談の続きをおこない、親交を深めました。私が、開かれたウリ党の金槿泰議長にあいさつにいくと、二人で乾杯になります。金槿泰さんが、「私の国では乾杯するときに『ウィハヨ』(のために)といいます。民主主義と東アジアウィハヨ」といいます。そこで私が、「朝鮮半島の平和と日韓の友好ウィハヨ」という。そうすると、民主労働党の権永吉(クォン・ヨンギル)議員団代表も加わって三人で「ウィハヨ」になり、民主党の幹部も入って四人で「ウィハヨ」と乾杯となりました。晩餐会の席でみんなが見ている前で、私と韓国の諸政党のリーダーとの心温まる乾杯となりました。

 晩餐会の催しとして、各国の民謡や愛唱歌がメドレーで演奏されました。日本の歌は「ふるさと」でしたが、若い女性と少女たちの実に美しいコーラスでしたので、私が立ち上がって「ブラボー」といいますと(笑い)、韓国の政党の首脳陣が「ミスター・シイ、花を投げろ」といって、私に花を渡すのです。私が、柄にもなく、渡された花を投げると、みんなから拍手が起こる(笑い)という具合で、初訪韓が成功した余韻が、国際会議に入ってからも続きました。

 私たちが民主労働党と会談したさいに、権永吉議員団代表が、「今回の国際会議の最も大きな意義は、日本共産党の訪韓です。韓国のメディアでもそのように報道されました」とのべていました。これは過分な評価だと思いますが、国際会議成功の一端を担えたということは、私たちにとってたいへんに大きな喜びでした。

韓国社会の日本共産党への見方もかわりつつある

 今回の訪韓の活動の全体を通じて、韓国社会の日本共産党への見方も変わりつつあると感じます。

 韓国メディアは、全体として温かく、好意的に、連日のように、日本共産党の訪韓をとりあげてくれました。メディアとの会見は、韓国メディアとの会見が二回、在韓日本メディアとの会見が一回でしたが、韓国メディアの二回目の会見では、真剣な質疑があいつぎ、最後に、これもわずかばかり覚えた韓国語で私があいさつすると、拍手がわきおこりました。記者会見での拍手は、普通はないことで、私はもちろん初経験でした。韓国メディアからも、たいへんに温かく迎えられたというのが実感です。

 韓国メディアの個別のインタビューにたいしては、出発前、滞在中とも、できるだけ応じました。日程がびっしりだったので、深夜のインタビューもありました。「ハンギョレ」という新聞とのインタビューは、ソウルの最後の晩の深夜でしたが、「夜遅くまでインタビュー 途中 NHKでチャングムをやる時間」という見出しで報じられています(笑い)。「好きな韓国ドラマは」と問われ、「『宮廷女官 チャングムの誓い』です」と答え、「好きな俳優さんは」と問われ、「イ・ヨンエさんです」というやりとりがありまして、こういう見出しがついたのでしょう。インタビューの最中が、日本でのドラマの放映時間にあたっていて、今週は韓国に来ているのに「チャングム」が見られないのが残念だといったやりとりもありました。

 韓国メディアが積極的に報道してくれたおかげで、韓国社会の日本共産党への見方も変わりつつあると感じます。九月十日、すべての日程を終えて、金浦空港で家族への土産を買っていると、店員の女性が、私の顔を見るなり「イルボンコンサンダン(日本共産党)ですね」といってくるのです。私が「どうして知っているのですか」と聞くと、「テレビでやっています。みんな知っていますよ」という答えでした(笑い)。これも、この訪問が、日本共産党と韓国との交流の文字どおり太い道を開いたと実感した一こまでありました。以上をもって韓国の訪問についての報告を終わります。(拍手)(つづく)


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