2006年9月7日(木)「しんぶん赤旗」

コミンテルンとの関係 どう考える?


 〈問い〉 戦前、日本共産党はコミンテルンの日本支部として出発したと知りました。そのこととコミンテルンがスターリンの道具になっていたこととの関係をどう考えているのでしょう。(北海道・一読者)

 〈答え〉 共産主義インタナショナル(コミンテルン)は、1919年3月、レーニンの指導のもとにつくられた国際組織で、43年の解散まで、各国の共産党は、その支部として活動しました。1922年創立された日本共産党は同年11月のコミンテルン第4回大会で日本支部としてみとめられました。

 コミンテルンは、各国の共産党の創立と活動を援助しましたが、その活動には、「世界革命近し」という性急な情勢論、レーニンによる「議会の多数をえての革命」の道の原理的な否定、「単一の世界共産党」という組織形態にともなう各国の党と運動にたいする画一主義的な傾向など、政治上、理論上の大きな誤りや弱点も少なくありませんでした。晩年のレーニンは、労働者階級の「多数者の獲得」をめざす目標をかかげるなど、あたらしい路線の積極的な探究をはじめていましたが、24年のレーニン死後、その探究もとざされてしまいました。

 生まれたばかりの日本共産党は、今日のような自主的な立場を自覚的にもつにはいたっていませんでしたが、世界の革命運動の国際的到達点にもささえられながら、民主主義の実現をめざして天皇絶対の専制政治をうちやぶるたたかいに全力でとりくみました。

 その点で、戦前の日本共産党の活動には、日本における民主主義革命の実現を重視したコミンテルンの前むきの援助とともに、コミンテルンの方針にともなう誤りや弱点もさまざまな形であらわれました。

 コミンテルンは、日本共産党の加入から30年代前半までは、健全さをまだもっていました。

 しかし、37年から38年には、スターリンの専制と弾圧がコミンテルンにもおよび、コミンテルンなどで活動していた外国の共産党の幹部、活動家への弾圧がつよまります。これ以後、コミンテルンは、スターリンの外交路線への追従と覇権主義的支配の舞台となるなど、各国の運動の前進をさまたげる反対物に変質をとげてゆきました。

 当時、日本共産党中央は、天皇制政府の弾圧で獄中にあり、コミンテルンの変質の進行を知ることはできませんでした。しかし、旧ソ連での弾圧で、杉本良吉、岡田嘉子、国崎定洞、山本懸蔵をはじめ、犠牲となった日本共産党員、亡命者も少なくありませんでした。(喜)

 〔2006・9・7(木)〕


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