2006年7月15日(土)「しんぶん赤旗」

八坂スミさんとは?


 〈問い〉 先日の本欄で石井百代さんのことが紹介されていましたが、もう一人、「生きることが/反戦平和につながれば/わたしは生きる/這いずろうとも」と歌った八坂スミさんとはどんな人ですか?(三重・一読者)

 〈答え〉 戦前、戦後の日本共産党の84年間の歩みには、平和と国民だれもが幸せに生きられる社会を願って、誠実にたたかい抜いた無数の人々の名が刻みこまれています。

 この歌を残した八坂スミさん(本名・石塚ルイ、1891―1986)もそんな日本共産党員の一人です。この歌は八坂さんの90歳のときの作品で、これを収めた歌集『わたしは生きる』は、86年度の多喜二・百合子賞を受賞しました。作品が「今日の社会や政治のあり方に対する、作者のおう盛で積極的な関心が特徴的」であり、政治詠も「作者自身の共産党員としての生き方、格調の高い、平明で澄みとおった歌風とよく溶けあって、独特のみずみずしさ、のびやかさが」あると評価されました。授賞式で八坂さんは、「私の歌の土台は共産党員であること」「党に人間らしく生きることを教えてもらいました」と語っています。

 八坂さんは、福岡市博多で生まれ、福岡高等女学校を卒業し20歳で結婚。封建的な家制度の中で苦しみ1923年、婚家をでて上京します。早大の学生だった甥(おい)の下宿で学生たちの世話をするなかで、日本共産党員の吉田寛の友人だった長村宜平を通じて、河上肇の『貧乏物語』や「赤旗」などにふれ、社会主義に共鳴、活動家をかくまったりします。疎開していた北海道浦河で終戦をむかえ入党。47年帰京し、地域の活動、婦人民主クラブや「草の実会」会員として女性の運動にも参加しています。「八坂スミ」のペンネームも新宿区落合八の坂に住んだことに由来します。

 その後転居した埼玉・戸田市では、共働きの家庭が増えて、「放課後の子どもを放っておけない」と自宅を開放、学童保育を始めた八坂さん。すでに70歳を過ぎていました。

 古食卓ひとつがわが家の机にて児らくる午後は拭き清め待つ

 八坂さんは、渡辺順三さんを囲むアカハタ短歌会にも参加します。その後、沼津の老人ホームに入所しますが、78歳のときに戸田市に戻り一人暮らしを始めます。

 選挙のときには、力をふりしぼって、「反戦平和の党支持を」と訴えました。

 食べぬ日もあった/曲折の八十二年、しあわせは/これからですよ―というような/党の躍進(1973年)

 這うことも/できなくなったが/手にはまだ/平和を守る/一票がある(1982年)

 比例代表選挙が導入され、初めての“政党選択”選挙で「抜群の躍進」をしたときは―

 身に沁(し)む/九十二年の生き甲斐/「日本共産党」と 堂々ときょうは書ける日

 党員の誇りとたたかう気迫にあふれた95歳の生涯でした。(広)

 〔2006・7・15(土)〕


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