2006年5月25日(木)「しんぶん赤旗」

旧ソ連でなぜ、スターリンが指導者に…


 〈問い〉 有権者との対話で、「旧ソ連で、なぜ、スターリンのような人物が指導者となることができたのか?」と聞かれることがありますが、どう答えたらよいでしょうか。また、党の文献で、そのことにふれたものがあるでしょうか。(東京・一読者)

 〈答え〉 ロシア革命当時のボリシェビキ(共産党)には、特定の個人が大きな権限をにぎるようなポストはなく、レーニンによる指導も、弁論を通して人々を説得することによっておこなわれていました。レーニンが病気で倒れた後、新たに設けられた書記長の地位に就いたスターリンは、自分ひとりに党運営の権限を集中させるようになりました。そして、ロシア革命後に独立国となっていたウクライナ、ベルロシア、グルジアなどを、強権的なやりかたで「ソビエト連邦」へと統合していきました。

 レーニンは、1923年に開かれた第12回党大会に際して、ソ連邦内の諸民族に対する抑圧を是正するよう警告する手紙を党の幹部に送りました。また、大会の代議員にあてた手紙では、スターリンを書記長から解任するように求めました。そのなかでレーニンは、「スターリンは粗暴すぎる」として、この欠点が党の将来に「決定的な意義をもつことになりかねない」と述べています。しかし、当時のソ連共産党の幹部には、この指摘の意味を正面から受け止められる人物はいませんでした。また、レーニン自身も、スターリンとのたたかいを完遂することなく世を去りました。この経緯については、不破哲三著『スターリンと大国主義』に詳しく書かれています。

 レーニンが指摘したスターリンの「粗暴さ」は、29年から30年にかけて、上からの強権的な農業集団化となってあらわれました。自分の農地を手放すことに抵抗した農民たちが、数百万人という規模で「シベリア送り」となったのです。また、30年代に入ってからは、「粛清」と呼ばれた党幹部の大量弾圧が始まりました。以後スターリンは、党の大会さえも開かないなど、党運営のルールを踏みにじって独裁者となっていきました。

 その背景には、個人の尊厳を前提とする民主主義が、当時のソ連社会に十分根を下ろしていなかったこと、同時に、ソ連共産党が、民主的な組織運営の面で未熟だったことがあると考えられます。また、レーニン死後のソ連は科学的社会主義の原則をふみはずし、国内的には専制主義・官僚主義の体制をつよめ、対外的には干渉と侵略、覇権主義の道をすすんで、ついに解体にいたりました。日本共産党は、スターリン以後の人間抑圧型のソ連社会は、社会主義社会でも、社会主義へ向かう過渡期の社会でもなかったと結論づけています。(哲)

 〔2006・5・25(木)〕


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