2006年5月3日(水)「しんぶん赤旗」

重慶爆撃とは?


 〈問い〉 重慶爆撃の中国人被害者40人が日本政府に賠償と謝罪を求める訴訟を起こしましたが、どんな爆撃だったのですか?(東京・一読者)

 〈答え〉 日中戦争の最中、中国の国民党政権の臨時首都となっていた重慶市にたいして、日本軍は、無差別爆撃をくり返し、多くの人々を殺傷しました。(中国人民政治協商会議四川省重慶市委員会文史資料研究会編『重慶抗戦紀事』によると、爆撃は1938年2月〜43年8月にかけて218回、被害は死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸。ほかに41年6月5日、防空壕で数千人から1万人以上が窒息死したといわれる惨劇がある)

 とくに、1939年5月3日と4日にわたる波状攻撃は「五・三、五・四空襲」の名で、日本軍がおこなった残虐な蛮行として市民にいまも語り継がれています。

 5月3日、漢口基地を発進した日本軍の45機は午後1時すぎ、長江北岸から急降下し、爆弾、焼夷(しょうい)弾を雨のように投下、人口密集地は火炎におおわれ、逃げ道を失った人々を巻き込みました。夜になるまで燃えさかり、やっと鎮火した焦土には、死体がるいるいとしていました。『重慶抗戦紀事』は、両日だけで、死者2648人、負傷者3668人にのぼったとしています。

 一夜に10万人が殺された「3・10東京大空襲」と同じ惨劇を、その6年前、重慶で、日本軍が引き起こしていたのです。

 ナチスドイツのスペイン・ゲルニカ爆撃(37年4月26日、死者約1600人)とともに、重慶爆撃は、一般民衆をねらった最初の本格的な無差別都市爆撃でした。

 日本軍は37年12月、首都・南京を、38年10月には武漢を占領しますが、中国は降伏せず、蒋介石と国民党政権は武漢からさらに800キロも奥地にある重慶に遷都します。この手詰まりを打開しようとしたのが「飛行団ハ主力ヲ以テ重慶市街ヲ攻撃シ敵政権ノ上下ヲ震撼(しんかん)セントス」(陸軍の命令書)という“抗戦意思をくだく”目的の「無差別爆撃」だったのです。

 一般民衆を殺傷する非人道的行為はいかなる理由があっても許されるものではありません。しかし、これが「戦略爆撃」の名のもとに合理化され、やがて、米軍の日本本土空襲や広島・長崎の原爆投下、さらにはベトナム戦争でのナパーム弾使用などにつながっていきます。

 1978年発効のジュネーブ条約「国際武力紛争の犠牲者の保護に関する追加第1議定書」は「文民を攻撃の対象としてはならない」「無差別攻撃を禁止する」と明文化しました。日本は2004年、これを批准しましたが、米国はまだ批准していません。(喜)

 〈参考〉前田哲男著『戦略爆撃の思想』(現代教養文庫)、早乙女勝元著『重慶からの手紙』(草の根出版会)

 〔2006・5・3(水)〕


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