2005年9月24日(土)「しんぶん赤旗」

米国の“借金経済”支え続ける

プラザ合意から20年 


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 日米英独仏の五カ国がドル高是正で合意した「プラザ合意」から二十二日で二十年になりました。何が変わったのか、何が変わらなかったのかをみてみます。(渡辺健)

 「プラザ合意」当時は、レーガン米大統領と中曽根首相の“ロン・ヤス蜜月”時代。米国は巨額の財政赤字と経常赤字の「双子の赤字」に陥ったうえ、ドルの大幅な上昇に直面していました。

 ドル高是正(円高誘導)で米国の貿易赤字を解消しようとするレーガン政権の要求を丸のみした日本は、大変な犠牲を払うことになります。

■産業空洞化を起こす

 円高は中曽根首相の提案だったともいわれています。「プラザ合意」の当事者であるボルカー元米連邦準備制度理事会(FRB)議長は「会合で私が最も驚いたのは、その後総理大臣になった日本の竹下大蔵大臣が円の10%以上の上昇を許容すると自発的に申し出たことである」(『富の攻防』)と証言しています。

 「プラザ合意」により急激な円高・ドル安が、竹下氏の「申し出」をはるかに超えるスピードで進行。一九八五年九月の合意直前には一ドル=二四〇円だった円・ドル相場が、八五年末には二〇〇円になり、八六年には一時一六〇円を割り込み、九五年四月には一ドル=八〇円台を突破しました。

 円高不況が日本を襲い、輸出関連の地場産業は倒産、輸出大企業は海外への生産拠点の移転を進め、国内産業の空洞化を引き起こしました。輸出大企業は、「一ドル=八〇円時代に対応する」(トヨタ自動車)などとして、賃金抑制・過密労働や下請け単価切り下げでいっそうのコスト削減をはかりました。

■バブル発生と破たん

 「プラザ合意」は、日本の八〇年代後半の異常な「バブル経済」発生と九〇年代はじめの破たんを招く要因ともなりました。

 米国側は、「プラザ合意」のもう一つの約束は政策協調による「内需拡大」だと日本に迫ります。日本は八五年に5%だった公定歩合を八七年までに五度も引き下げ、当時としては最低の2・5%まで引き下げました。

 日銀による超低金利政策は、通貨の供給量を異常にふくらませ、株と土地の暴騰という「バブル経済」を引き起こします。大手銀行の過剰融資と大企業の乱脈経営は、「バブル崩壊」後、巨額の不良債権となり、日本経済の重しとなります。

 「プラザ合意」の翌年に蔵相となり、超低金利政策を推進した宮沢喜一氏は、「不良債権の問題を辿(たど)っていくと、どうしても、きっとプラザ合意のところに行くのだろうと思います」(『宮沢喜一回顧録』)と認めています。

 「プラザ合意」十周年の記念シンポジウム(九五年十月)でホイスラー独連銀理事は「ドイツ連銀は(米国の金利引き下げ)圧力に持ちこたえることができたが、日本の金融政策は、愛想よく受けた」とふりかえり、その後の日本のバブルとその破たんをみると「(ドイツ連銀の対応は)われわれの最大の幸せだった」と述べています。

■双子の赤字そのまま

 もともと、米国の貿易収支の不均衡の解消が目的だった「プラザ合意」ですが、合意から十年後も、二十年後も不均衡は解消されていません。

 それは、米国と日本のそれぞれの原因にメスが入れられていないからです。

 米国の財政と経常収支の「双子の赤字」という病気は放置されたままです。超軍事大国の米国は、「ブッシュの戦争」で財政を圧迫し続けています。貿易赤字は二〇〇四年、初の六千億ドル台に乗せました。

 それでも米国の経済が成り立っているのは、巨額の借金経済を日本など海外からの資金流入で穴埋めしているからです。

 「写真金利」といわれるように、常に日本の金利は米国の金利より低く抑えられ、日米間では日本から「高金利」の米国に資金が流れる仕組みがつくられてきました。

 日本側では、自動車、電機など輸出大企業が、労働者や下請けにしわ寄せする形で輸出競争力をつけるという構図にはメスが入れられていません。企業・労働法制の改悪で、むしろリストラがかつてない規模と速度で行われています。

 「市場にまかせろ」という米国の資本と金融の自由化策は、投機マネーが一国の経済をもゆさぶる破壊をもたらしています。

 ドルに対抗する「ユーロ」の誕生や世界経済のなかで比重を高める中国などアジアの動向など、米国の利益を最優先した「政策協調」だけで、経済を動かすことの限界と矛盾がますます鮮明になってきています。それは、米国いいなりの日本の異常さをより際立たせています。


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