2005年1月3日(月)「しんぶん赤旗」

新春対談 ざっくばらんに

観客が自分の中に多喜二を持つこんな不思議な芝居は初めて 

俳優・演出家 米倉斉加年さん

不正に対してたたかう心情と愛情は表裏の関係なんですね

日本共産党書記局長 市田忠義さん


 舞台「小林多喜二 早春の賦」を演出した俳優の米倉斉加年(まさかね)さんと日本共産党書記局長の市田忠義さんがざっくばらんに語り合いました。戦前、侵略戦争に反対し天皇制政府の弾圧に抗して不屈にたたかい特高警察に虐殺された作家・小林多喜二。

 米倉「(舞台を見にくる)お客さまは受け身で何か見にきたというのではないんです」

 市田「舞台を見ながら、自分が現代をどう生きればいいかを重ねあわせながら考えるということでしょうか」

 米倉「…自分の中の多喜二を見つめ、自分の中に多喜二をもつんです」

 今に生きる多喜二を語りあうなかで、イラク戦争に加担する日本に「多喜二の時代がダブる」という米倉さん。イラク戦争、憲法改悪の動き、それを押しとどめる力、日本共産党への思い―話はしだいに熱を帯びていきました。

 俳優で演出家の米倉斉加年さんと日本共産党書記局長の市田忠義さんがざっくばらんに新春対談。米倉さん演出の舞台「小林多喜二 早春の賦」から、母への思い、イラク戦争、平和そして憲法を守るたたかいへと話ははずんで…。

 市田 新年おめでとうございます。米倉さんと初めてお会いしたのは創立八十周年の記念集会(二〇〇二年)のときでした。あのとき「本日、この場で日本共産党の八十周年を記念して語れることがどれだけ光栄であることか、一生忘れないでしょう」とおっしゃってくださった。ほんとうに胸にしみいりました。その後、舞台「小林多喜二 早春の賦」を拝見しまして幕が下りた後、舞台をつくった方々の前で何か一言といわれたのですが、胸がいっぱいで、涙でことばにならなかったことを思い出します。いま第三次公演で、どこもいっぱいとうかがっていますが。

☆★……☆ 多喜二の目で

 米倉 ありがとうございます。ぼく自身こんな不思議な芝居やったのは初めてです。最近気がついた、ああこれは芝居じゃない、多喜二記念集会なんだと。お客さまは受け身で何か見にきたというのではない。自分の中にある多喜二、つまり、いざというときにきちんと発言する勇気と心はあるかとみずからに問いかける。

 市田 つまり、舞台を見ながら、自分が現代をどう生きればいいかを重ね合わせながら考えるということでしょうか。

 米倉 そうです。自分のなかの多喜二を見つめ、多喜二と対決するときに、客はみんな多喜二になる。多喜二の目を通して、自分の中の多喜二をみんなが発見し、自分の中に多喜二をもつんです。

 でもね、公演は必ず当日まで人数がつかめてないんですよ。ほんとうにハラハラするんですけれど入るんですよ。ですからぼくはいつも言っているの。「これはね、多喜二がお客さんの手をひっぱりにいっているんだ」(笑い)

 市田 そうなんですか。いま全国各地で「九条の会」の集会が開かれていますが、それがちょうどそのようなんですね。関係者に聞きますと、前日までは皆目見当がつかない。ところが当日になるとどこでも第二会場まで超満員なんです。やはり、平和を愛し、戦争をなくしたいという日本国民の思いは深いと思いますねえ。

☆★……☆ 普通に生きる

 米倉 多喜二の生きた時代は「普通に」は生きにくい時代でした。戦争しているさなかに、国に対して戦争しないほうがいいという、ほんとうの主張をする「普通」の人が、異端とされ「非国民」といわれた。

 市田 そうですね。命がけでないと「普通に」は生きられない時代だった。「普通」には「並」という意味もあるけれど、「まとも」という意味もある。米倉さんは「多喜二の言葉は生きるための言葉であり、愛の言葉である」とも言っておられますね。それはどんな思いですか。

 米倉 それは多喜二がほんとうの愛国心をもった人だからです。戦争の足音が聞こえてくるとき、必ず「愛国心がない」といわれますね。戦争のために愛はないはずです。国を愛するというのは抽象的なんですよ。ふるさとを愛するというのはわかるんです。山、川がありその生態系の中で生きてきた。そして母、父、友、兄弟、隣人がいるなかで命を育ててきた。ふるさとの集まりが国だとすれば、人民を愛し、国を真に愛したのは多喜二だと。戦争の準備のための「愛国心」、敵対するために「愛」は使うべきじゃない。戦争というのは人を殺すことで、それで平和がもたらされるというのは、ぼくはどうしてもわからん。

 市田 不正だとか、間違ったことに命がけでたたかう不屈の心情をもっている。そういう勇敢さがあるがゆえに国民にも近親者にも燃えるような愛情をもつ。これは表裏の関係なんでしょうね。

 若いころに多喜二を読んでいちばん感動したのは、時代は違うけれど、やはり一回しかない人生をどう生きるかという点で、たとえ自分の命は失っても平和や社会の発展、解放のためにつくすことこそ真に生きがいのある人生だという確信ですね。

 敵に対してはあくまで正義を貫き、国民の生活を守ってたたかうという不屈の精神は、今日の私どもの活動に受け継がれているわけですが、多喜二はその強さと同時にやさしい。ほんとうに強い人は、ほんとうにやさしいんでしょうね。「党生活者」などの原稿料を、自分はナスの漬物で三日も過ごしながら、暑い夏、母を一日涼しいところで過ごさせてやってくれと送ったんですね。

☆★……☆ 母への思い

 米倉 こんど初めて市田さんのお母さんの句歌集を読ませていただいたんですが、心打たれました。「夜学び/昼は勤めて得しお金/肉など買えと送りてくれぬ」。夜学に通い、昼働いたお金をお母さんに送金された市田さんのこの優しさは政治家としてマイナスになるんじゃないかと心配するくらい(笑い)とても感動させられました。ほんとうの意味でそういう政治家、指導者がいまの日本には必要だと思います。

 市田 偶然なんですけど、多喜二が生まれた年と母が生まれた年がいっしょなんです。よく似たところもあって、多喜二の母もたしか読み書きできず、獄中の多喜二に手紙を書くために必死で字を覚えた。うちの母も小学校をでたぐらいで、ほとんど独学だったんだと思います。共産党に入った自分の息子を思う気持ち―“何もお前が先頭にたたなくても”といっていたのも重なるんです。だから舞台を拝見していて、官憲に追われる多喜二と母が料理屋で落ち合う場面、あそこでお母さんが、お前は肩にクセがある、後ろからでもすぐわかる。肩を振らないように歩くクセをつけないと、と忠告しますね。あの場面などは「母親についての日本の文学の描写のなかでもっとも光り輝く一節」といわれていますね。

 米倉 母親役の役者にそこの演技は小細工しちゃいけない、まっすぐやれといっているんです。キョロキョロするようなしぐさをするんじゃない! 違うと。

 店に入ってきた母に多喜二は「そんなに気をつかってるとかえって怪しまれる」というんですが、多喜二からはそう見えても、この母は入ってきたときに立ちすくんだんだと。多喜二を見て。生きている姿を見たらもうそれでいい。それだけで帰ろうと思った。元気でいただけでいい、長居してはいけないと、帰ろうとするけれど、またひかれてもういっぺん見ようとする―。子が思う以上に母はもっと大きいんです。

 市田 そうですね。大きいですね、母というのは。

 米倉 ぼくの母も小学校しか出ていません。だけど本当の知性をもった母で、短歌も俳句もやった。戦後、ぼくが役者になるとわずかな毛糸をほぐしてトックリのセーターを編んでくれた、黒に染めて。

 その母が最後にぼくにくれたもの。母が寝たきりになって二階にいたとき、一日そばにいようと思ってまくら元にいったんです。そうしたら母が「下に行け」「下に行け」っていうんです。いまはもう、ぼくにあげるものは時間しかないんですね。ぼくは下へ降りました。母は大きい。だから、多喜二の母を演じるときも、「母は無知だけど大きい、まっすぐやれ」というんです。市田さんのお母さんの歌や句を読んでいると共通の母を思います。

☆★……☆ イラク戦争

 市田 米倉さんは、多喜二は現代に生きているという話をされて、イラク戦争とダブるとおっしゃっていますね。

 米倉 ブッシュ米大統領がいっていたけれど、アメリカは十字軍ですよね、やっぱり。怖いと思うのは、力をもった大きいものがすべてを圧倒していくという、もうそんな時代じゃないのに、宗教や文化の違いを受け入れられない国がある。

 近年のアメリカの中東への介入は世界の平和を大きくゆるがすものです。湾岸戦争、アフガンへの報復戦争、そしてイラク。あのイラク戦争に「大義」があるみたいにいっていますが、戦争に大義はないんです。

 市田 昨年見た梅原猛さんのスーパー狂言「王様と恐竜」の中で、いくら軍事力やおカネがあっても「正義」がないと世界を支配できない。しかし勝てば官軍、勝てば「正義」はあとからついてくる、というくだりがありました。もうアメリカや日本政府がいっていたイラク戦争の「大義」は全部崩れましたね。大量破壊兵器もビンラディンとのつながりもないことがはっきりした。なのに国連憲章違反の大義のない侵略戦争の下で、無謀な人殺しがやられている。

 米倉 そういう戦争に加担する日本に多喜二の死の時代がダブるんです。作家を殺す国家は文明を殺す国家だからです。たとえば共産党は最初からはずしていいという考え、テレビ討論でも共産党の発言に対して自民党が薄ら笑いを浮かべる。これはね一票を投じた国民に対する侮辱だと思います。立場は違っても認め合うのが民主主義でしょ。違っても議論するために国会があるわけでしょ。互いに尊敬の念をもたないということは非常に不愉快になるんです。共産党をはずしていいというのを当然のことのようにいったりすることはやっぱりファシズムです。

 市田 昨年八月に開かれた「第六回京都国際マンガ展」で金賞を取った作品はピカソの「ゲルニカ」の絵の前で兵士が武装を解く姿を描いたものでした。

 一九三七年のヒトラー・ドイツのゲルニカ爆撃にも匹敵するのが米軍のイラク・ファルージャへの攻撃だと思います。三十万人都市を完全に包囲し、脱出した人たちがいたとはいえ、それでも十万人をこす人びとが暮らす町を爆撃し、戦車で踏みにじり、無抵抗の人を撃ち殺す。民間人で犠牲になったのは数千人ともいわれている。この暴挙はアメリカのイラク戦争の無法さを象徴するものですが、二十一世紀の世界でこんなことは絶対に許されないことです。

 米倉 いや、ほんとうにそうです。

 市田 ただ、無法がまかり通る、アメリカ一国で世界をおさえられるかというと、そういう時代ではなくなっているのも確かですよね。イラク戦争に賛成したのは百九十一の国連加盟国のうち四十九カ国、軍隊を送った国は三十七カ国でそれも次々撤退しています。

 米倉 スペインなんかスッとひきあげてきましたね。

 市田 小泉内閣は国会にもはからず、自衛隊の派兵延長を決めました。国際協調どころか、国際的孤立の道ですね。カイロ大学のイサム・ハムザ氏は「アラブ世界は二十世紀初頭から、日本を東洋の理想としてみてきた」、しかし「百年間続いたアラブの親日感は自衛隊の派兵によって終止符が打たれようとしている」とのべています。

☆★……☆ 憲法九条

 市田 米倉さんの弟さんも二歳で栄養失調で亡くなられたと聞いています。「昭和万葉集」を読んでいたら「牡丹江の河に棄てたる幼な子の溺るるさまを君泣きていふ」というのがありました。先の戦争では二千万人のアジアの人びと、三百十万人の日本国民が犠牲になりました。そうした人たちの思いが凝縮してできたのが憲法九条だと思うのです。

 米倉 おっしゃる通りです。日本が戦争をしない努力をするんならいいんだけど、戦争できる準備をするというのは、とってもぼくにはわからない。憲法は「借り物」だというでしょう。

 市田 ええ。

 米倉 福岡の辛子めんたいこをご存じですか。元は韓国のものですが、十五年以上続いたら、その土地の文化です。すでに韓国のものではなく日本の文化です。誰がつくろうが、どういういきさつであろうが、憲法でいえば五十年以上にわたって全国民がそれを了承し、支持し大事にしてきたものはわれわれのものなんです。

 市田 憲法を変えようという人は「普通の国」にするというけどその「普通」は、普通じゃない。戦後の国際社会への公約を踏みにじって戦争する国が「普通の国」、というのがいまの小泉内閣の考え方ですから。

 たしかにいま、憲法制定後、最も危険な情勢といわれている。改憲の動きが急です。しかし、一方で憲法改悪のハードルは高い。世論調査で“九条変えるな”は六割です。さきほどもちょっと話しましたように作家の大江健三郎さんらの「九条の会」のよびかけにこたえて草の根でいま九条を守ろうという動きが広がっています。大変心強い動きですね。

 アジアでも、先に自民党の改憲草案のたたき台がでたときに韓国の四分の一の議員が「非常に危険だ」と声をあげました。武力による威嚇、武力の行使を放棄しようとうたっている東南アジア友好協力条約は一九七六年に五カ国ではじまったのがいま日本も入り十七カ国になっています。改憲策動はそうした世界やアジアの流れにも反するものです。

☆★……☆ 希望ある日本

 米倉 多喜二は小説を書いて、普通に生きようとして殺された。いま多喜二を上演して一人もこない芝居をやりたいと思ったんです。問いたかった、自分にもみんなにも。戦争する国にしてもいいのかと。一人もこないというのは、何で一人もこないのにやっているんだろうと考えさせることができるじゃないかと、見にくる人がいなくてもやるアホになりたかった。そしたらえらく人がきてくださってアホにしてくれなかった。(笑い)

 市田 そういう米倉さんの気迫が伝わるんでしょうね。

 米倉 いま役者として人生残り少なくなったときに、私がやることは本当のことを言うことだと考えたんです。

 自民党が平和な社会をつくったんじゃないんです。殺されようが、何されようが戦争には反対、平和が大事と言い続けてきた共産党、そういう人たちがいて社会がつくられてきたんです。だから、きちんと言い続ける。「九条は守らなければ」と言い続ける政党があるかぎり、日本には希望があると思うんです。

 市田 希望という点でいえば、昨年、地震にみまわれた新潟県を見舞ったとき、ああいう困難にぶつかりながらお互いが肩を寄せ合い、うでをとりあって暮らされている。人と人とのきずなの深さというか、その連帯の精神のすばらしさに感動しました。また全国の人が自分のことのように救援募金を送るし、ボランティアにいく。日本共産党がよびかけただけでも二億円が集まり、救援物資は段ボール八千箱、ボランティアはのべ一万人以上になりました。

 米倉 ほう。すごい。

 市田 また青年たちがものすごくがんばった。青年ボランティアがマッサージのやり方を習ってお年寄りと会話しながら体だけでなく心もほぐす。とん汁も冷めないように毛布にくるみながら各戸に届けるんです。

 平和の運動でも青年はユニークですよ。この間大阪で、ほうきを持ったデモがあった。「戦争ほうき(放棄)」なんです。(笑い)

 米倉 世界から戦争がなくなる日がくるのでしょうかね…。でもぼくは、ぼくの孫たちの時代にはきっとなくなる日がくると信じたいんです。

 市田 ほんとうにそうですね。ことしは戦後六十年。戦争の不安など、まだまだ心配はあるけれど、歴史はムダには動いていない。世界全体が軍事同盟の時代から、それぞれの国が自分たちの進む方向は自分で決めるという流れになってきていますよね。国連の場でも非同盟諸国が大きな役割を果たしていますし、フランスやドイツもイラク戦争に反対しました。「二大政党制」づくりのもとで日本共産党の議席は減ったけれども、私はいくら「二大政党制」づくりがすすんでも国民の願いや要求を抑えつけることはできないと思うんです。

 いま国民の中には青年はもちろん、壮年も老年も、こんな政治、いつまでも続けさせてはならないというものすごいエネルギーが充満している気がします。今年は酉(とり)年。鶏は黎明(れいめい)を告げ、暗闇を追い払って太陽をよぶ鳥、といわれているそうです。そういう年にするために日本共産党もがんばりたいと思っています。

 米倉 ぜひそういう年にしたいですね。そのためにもお体に気をつけられてがんばってください。

 市田 ありがとうございます。


 小林多喜二(1903―1933) 秋田生まれ。07年北海道小樽へ一家移住。小樽高等商業学校時代から投稿作品『藪入』(23年)などで注目され、プロレタリア文学運動に参加。特高警察の残虐性をえがいた『一九二八年三月十五日』(28年)や、天皇制下の奴隷労働の実態をえがいた『蟹工船』(29年)、『工場細胞』などを発表。31年7月日本プロレタリア作家同盟書記長に選ばれ、同年10月日本共産党に入党。非合法活動をつづけながら軍需工場での困難な活動をえがいた『党生活者』(33年)などを発表。33年2月20日、スパイの手引きで逮捕され、特高警察のすさまじい拷問にもめげず党と信念を守り、その日のうちに虐殺された。


俳優・演出家 米倉 斉加年さん

 よねくら・まさかね 1934年福岡生まれ。57年、劇団民藝水品演劇研究所に入所。67年新劇演技賞、第1回紀伊国屋演劇賞。76、77年連続してボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞。81年日本アカデミー助演男優賞。88年第23回紀伊国屋演劇賞。2000年民藝退団。主な著書に『多毛留』(絵本)『おとなになれなかった弟たちに…』(同)『道化口上』など多数


日本共産党書記局長 市田忠義さん

 いちだ・ただよし 1942年大阪生まれ。63年日本共産党に入党。龍谷大学図書館・司書など働きながら67年立命館大学卒業。71年日本共産党の活動に専念。以後、京都伏見地区委員長、京都府委員会書記長、同委員長を歴任。94年党常任幹部会委員。98年参院議員に当選。2000年第22回党大会で党中央委員会書記局長に選出



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