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2020年12月7日(月)

主張

「対米英開戦」79年

歴史の過ち二度と繰り返すな

 1941年12月8日、中国で侵略戦争を続けていた日本は、当時イギリス領のマレー半島コタバルとアメリカのハワイを奇襲攻撃し対米英戦争に突入しました。あすはその日から79年です。日本の戦争は、アジア諸国民と日本国民に甚大な犠牲を出しました。悲劇を絶対に繰り返してはなりません。日本を再び「戦争する国」にすることを狙った安倍晋三前政権を引き継ぐ菅義偉政権は、日本学術会議の人事に介入し、学問の自由を蹂躙(じゅうりん)する強権姿勢があらわです。国民の自由と権利を奪い、戦争に突き進んだ歴史の過ちに無反省の政権を許すわけにはいきません。

自由を奪われ戦争に動員

 日本国憲法前文は「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」すると宣言しました。憲法が定める国民主権や恒久平和、基本的人権などの原則は、悲惨な戦争の経験を踏まえて築かれたものです。

 学問の自由を保障した23条にも、戦前の痛苦の反省が込められています。1920年代後半から思想・表現への弾圧が強化され、学問・研究の自由への重大な攻撃も際立ってきます。それは日本の侵略拡大と軌を一にしています。1931年の中国東北部への侵略(「満州事変」)が始まると滝川事件(33年)が起こります。京都大学の滝川幸辰(ゆきとき)教授の自由主義的な刑法学説や著書が攻撃され、政府が同教授の追放を強行する暴挙にでました。中国全面戦争開始(37年)前の35年には憲法学者の美濃部達吉氏らの言動が不敬罪だと攻撃され、政府が著書の発売を禁止するとともに、政府声明で美濃部氏らの学説を否定する「天皇機関説」事件が起きました。これらの学問弾圧事件が大きな分岐点となり、全ての国民の言論、表現の自由の圧殺へつながりました。

 日本学術会議の前身である学術研究会議は20年に設立されました。当初から独立性は限られてはいたものの、会員は会議の推薦で選ばれるなど一定の独立性はありました。しかし、対米英戦が激化した43年、推薦制は廃止され、文部大臣の任命制に変えられました。「科学研究は大東亜戦争の遂行を唯一絶対の目標として強力にこれを推進」「学術研究会議を強化活用して学理研究力を最高度に集中発揮」との政府決定を受けたものです。この改編を機に科学者が軍事研究に総動員され、本土決戦用の兵器開発などに駆り立てられました。

 49年発足した日本学術会議の原点は、戦争協力への深い反省の上にあります。学術会議の独立性を破壊する菅政権の会員任命拒否は、誤った道への逆行そのものです。日本の平和と民主主義がかかった重大問題をこのままにはできません。国民共同の力で任命拒否を撤回させることが急務です。

憲法を守り生かすとき

 45年8月の日本の敗戦から今年で75年です。日本の侵略戦争で310万人以上の日本国民と2000万人を超すアジア・太平洋の諸国民が犠牲になり、日本の戦争責任はいまも問われ続けています。

 安倍前首相が打ち出し、菅首相が継承する9条改憲の狙いは、自衛隊が海外での武力行使に本格的に道を開くことです。戦後の歩みを逆転させる暴走を阻止することが必要です。改憲策動を断念に追い込み、憲法を守り生かす世論と運動をさらに強めましょう。


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