日本共産党

2003年8月26日(火)「しんぶん赤旗」

チュニジアの七日間(2)

中央委員会議長 不破哲三

ヨーロッパのこと、地中海のこと


存在感を増す「ヨーロッパ」統一体

 飛行機の乗り換えの都合で、往路はパリで一泊、帰路はフランクフルトで一泊という日程となった。私のヨーロッパ旅行は、一九八八年一月のインド・デンマーク訪問で止まっていたから、十五年ぶりの訪問ということになる。といっても、食事に街のレストランに出かけ、その途中、時間があればあたりを少しぶらぶらするという程度で、社会的、政治的な空気を体験するゆとりはなかったが、大きな変化を感じたのは、「ヨーロッパ」という統一体が、その存在感をぐっと増していたことだった。

 まず通貨である。パリでもフランクフルトでも、通貨はユーロ、同じ紙幣だから、どこでもユーロの円相場を頭にいれておきさえすれば、買い物の計算に不自由しないわけで、旅行者にとってはたいへん便利だ。紙幣には、橋や建物など古代の遺跡が描かれている。どこの遺跡かと聞いたら、国籍なしの架空の“遺跡”だとのこと。「ヨーロッパ」統一体の維持にそこまで細かい配慮をしているのかと、妙なところで感心した。

 経済面で国境を越えた「合体」が進むと、それはおのずから政治面にも幅広く浸透するようだ。飛行機のなかで読んだ資料によると、安全保障問題でも、「ヨーロッパ」という規模での安全保障政策の作成に、いま各方面から特別の関心と努力が向けられているとのこと。NATO(北大西洋条約機構)の軍事戦略の再編成が、アメリカ主導で決定されたりした三年前とくらべると、違った時代に足を踏み込んだかのような思いがある。

 私たちが、世界政治の現在と今後を考える場合、各国ごとの外交にとどまらず、「ヨーロッパ」統一体というものの存在をより本格的にとらえ、それにしっかり対面してゆくことが、いよいよ大事になってゆくようだ。

レーニンと「ヨーロッパ合衆国」

 ヨーロッパのこの現状には、第一次世界大戦が始まったとき、レーニンのボリシェビキ党が最初の時期にかかげた「ヨーロッパ合衆国」のスローガンを思い出させるものがある。

 当時は、ドイツも、オーストリア=ハンガリーも、ロシアも、イギリスも君主制の国家。共和制といえば、フランスとスイスぐらいしか存在しない時代だったから、各国で君主制から共和制への転換を実現し、連合して「共和制のヨーロッパ合衆国」をつくろうじゃないか、といったことで打ち上げられたスローガンだったらしい。

 それに待ったをかけたのが、レーニン自身だった。一九一五年二月、ロシアのボリシェビキ党の緊急会議がスイスで開かれ、反戦テーゼが議論されたとき、草案にあった「ヨーロッパ合衆国」のスローガンが論争の焦点となり、レーニンも、“ちょっと待てよ”と首をひねったのだった。

 あらためて問題を研究しなおした結果、ボリシェビキ党は、このスローガンを撤回することを決定した。(1)たとえ、各国で専制的君主制から共和制への転換が実現し、共和制諸国の「合衆国」がつくられたとしても、独占資本主義の体制が残っているならば、それは、植民地諸国を抑圧する帝国主義の連合体でしかない、(2)そして、連合した帝国主義の国ぐにが、植民地の争奪をめぐって衝突しあうならば、「合衆国」をたちまち崩壊させてしまうだろう――これが、主な論拠だった。

 たしかに、植民地支配とその争奪戦が支配的だった時代には、この分析は、現実の核心にせまる意味をもっていた。

 ところが、二十一世紀のヨーロッパでは、かつて成立不可能と判定された「合衆国」が、いまやまぎれもない現実となりつつある。

 わが党は、秋の党大会で検討する綱領改定案に関連して、植民地体制が崩壊した時代における帝国主義の変貌(へんぼう)という問題を提起し、独占資本主義国=帝国主義国という定式が一般的には成りたたなくなっていることを指摘したが、「ヨーロッパ合衆国」をめぐる新しい事態の背景にも、帝国主義、独占資本主義をめぐる情勢の新しい変化が反映しているのではないだろうか。

地中海が砂漠だった時代があった

 七月二十七日朝、パリのドゴール空港出発。チュニジアまで三時間足らずの空の旅である。最初は一面の雲だったが、やがて雲が切れて下界が見えはじめた。地中海を南北に横断しているところで、眼下にはサルデーニャ島らしい大きな島が続く。この島は、七〇年代から八〇年代にかけてイタリア共産党の書記長をつとめたベルリングェル氏の出身の地で、サルデーニャの農村の若い男女を表現した土人形を贈られたことがある。遠方にかすんで見えてきた陸地は、シチリア島だろうか。

 地中海は、世界の大洋のなかでも、もっとも個性的な歴史を持った海だろう。地球史的に見ると、水の一滴もない“地中海砂漠”だった時代もあるという。地中海をはさんでヨーロッパに対するアフリカ大陸は、もともとは南極大陸につながる巨大な大陸の一部だったものが、分離・独立し、長い時間をかけて現在の位置まで北上してきたものだ。

 この大陸がヨーロッパ大陸に接近してきた最初の段階では、二つの大陸のあいだに、西は大西洋、東はインド洋につながる帯状の海(テチス海)ができた。さらに北上が進むと、アフリカ大陸の東端をなすアラビア半島がヨーロッパ大陸の南側のトルコとぶつかって、インド洋との連絡路が断ち切られてしまう。続いて、アフリカの西端がヨーロッパ西南のイベリア半島とぶつかり、大西洋と連絡路も失われて、地中海が完全な内海と化す時代が来た。内海は海水の蒸発とともに次第に縮小する運命にある。こうして“地中海砂漠”が生まれるにいたるのだが、それはいまから六百万年前の出来事で、砂漠化に要した時間は約二千年とのこと。五十万年後には、いまのジブラルタル海峡のあたりで、二つの大陸をつなぐ壁の決壊が起こり、砂漠状態は終わりになるが、大西洋の水が流れこんで、地中海がほぼ現在の姿に近い形で現出するまでに百年かかった。地球の歴史をはかる時間のモノサシとは、気の遠くなるような巨大な単位のモノサシである。

 おそらく現存の大陸のなかで、もっとも激しい運動をしてきたのは、アフリカ大陸ではないだろうか。そのアフリカが、人類発祥の地となり、地球史的に激動の舞台となった地中海が、人類史的にも波乱に満ちた舞台となったというのも、興味深い歴史の組み合わせと言える。(つづく)


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