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2019年12月23日(月)

日本軍戦争跡をたどる

マレーシア・シンガポールにみる「慰安所」(下)

看護婦とだまされて

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(写真)元「慰安所」の一つ、「ちぶね」(千船か)と見られる建物。「ひのもと」という食堂が併設され、日本軍の野戦自動車隊や警備隊が利用していた=シンガポール市内

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(写真)現在は観光地になっているセントーサ島のビーチ。占領時には近衛連隊歩兵大隊が駐留=同市内

 シンガポールが日本軍に占領されるのは、1942年2月15日ですが、早くから「慰安所」が開設されたことがわかっています。

軍属の証言

 改称された「昭南特別市」の幹部だった篠崎護氏は、軍兵站(へいたん)部がさっそく商業地オーチャードロード近くに慰安所をつくったと証言。加えて「英国人は植民地を手に入れると、まず道路を整備した。フランス人は教会を建てた。スペイン人は、教会を持ち込んで金銀を持ち出して行った。そして日本人は料亭と女を持ち込んだ」との現地人の言葉を紹介しています。(『シンガポール占領秘録』原書房、1976年)

 どのようなやり方で女性が「慰安婦」にされたのでしょうか。

 今は観光地の、セントーサ島に駐留した部隊に通訳として配属された、軍属の永瀬隆氏の証言があります。

 ―1942年11月になってから朝鮮人女性12~13人が送られてきて「慰安所」が開設された。島には近衛連隊の歩兵大隊がいて、その隊長が「朝鮮人の慰安婦がこの部隊に配属になるから、日本語教育をしてくれ」といわれた。なんで通訳がやるのか、と思ったが仕方がないので、女性たちに日本語を3、4回教えた。兵隊でない永瀬氏が「あんたたちはどうしてここに来たんだ」と聞いたら、「実は私たちは、昭南島の陸軍の食堂でウエートレスとして働く約束で、支度金を100円もらって軍用船でここに来たんだけど、着いた途端におまえたちは慰安婦だといわれた」と答えたという。(雑誌『MOKU』1998年12月号の高嶋伸欣氏との対談)

 若いインドネシア人が「慰安婦」にされたという証言は複数あります。シンガポール元社会問題担当相オスマン・ウォク氏は「赤旗」特派員に語りました。(92年2月14日付)

悲鳴を耳に

 ―戦争中、港湾局で働いていたが(44年中頃)、インドネシアからたくさんの「ロウムシャ」が船で運ばれてきた、そのなかに白い制服を着た16~20歳ぐらいの少女たちが約30~40人くらい混じっていた。「看護婦になるためにきた」といっていた。しかし、市内の「慰安所」に連れて行かれた。日本が戦争に負けて、カタン・ロードの慰安所から彼女たちが逃げ出してきて「慰安婦として働かされた」と。

 同じく、「昭南博物館」にいた英国人E・J・H・コーナー氏は、日本の兵営のそばを通るとき、彼女らがジャワ語で「助けて」と悲鳴をあげるのを、通行人が耳にして胸がしめつけられた、と記しています。(『思い出の昭南博物館』中公新書、1982年)

 シンガポールのリー・クアンユー前首相は、92年に来日して講演した際、占領から4週間もたっていない時期に「慰安所」が市内にあり、順番を待つ日本兵の長い列を見たことがあると語っています(「朝日」同年2月13日付夕刊)。

 リー氏はシンガポールでの住民虐殺「華人粛清」にふれて、「日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した」と『回想録』で告発しています。

 (おわり)


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