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2019年12月20日(金)

日本軍戦争跡をたどる

マレーシア・シンガポールにみる「慰安所」(上)

元コーヒーボーイ証言

 アジア・太平洋戦争開戦から78年。安倍晋三首相は、日本軍「慰安婦」問題で、いまだに謝罪と反省に背を向けています。しかし、侵略した国や地域で軍の管理の下で「慰安所」を開設し、多くの女性の人権を奪い「慰安婦」を強制していた事実は隠すことはできません。マレーシアとシンガポールに、その実態をみました。(山沢猛)


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(写真)梁偉鳳さん

 日本軍「慰安所」の跡は、マレーシアの各地にいまも残っています。

「軍票」流通

 西海岸のぺラ州の歴史ある街・イポーで、「慰安所の客や女性にコーヒーや紅茶を運んでいた」という、中国系マレーシア人の梁偉鳳さんが証言しました(2018年当時、89歳)。10代前半に働いていたコーヒーショップ建物の、通りを隔てた向かいに、日本軍「慰安所」跡の4~5棟が並んでいます。

 「左端が百花楼でここがいちばん高い特別なところ。あとは彩花楼、萬花楼、聚花楼という慰安所があった」

 建物の前に、横書きで「百花楼」とあり、縦書きには、赤い文字で「M」(ミリタリーの意か)、その下に「軍用慰安所」と日本語で書いてありました。

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(写真)マレーシアのイポー市街地にある日本軍「慰安所」跡の建物群。左端が百花楼だった2階屋。右へ彩花楼、萬花楼、聚花楼など。慰安所は2階屋だったが変わった所も。手前後ろ姿は証言する梁さん

 「一つの建物に10人ほど、みな中国系で20~30代で広東語を話していた。マレー系やインド系はいなかった。客は軍服を着た日本人で、マレー人などは入れなかった」といいます。イポーには歩兵第256連隊本部が置かれていました。

 「私はコーヒー、紅茶のほか、焼きビーフンなどを出前した。どこも1階は応接室で、2階に4部屋あった。2階の何号室といわれて、ノックして中に注文品を入れた。コーヒーとビーフンは、1バナナドル、チャーハンがだいたい3バナナドルだったと思う」「軍から米が来ていて材料には困らなかった」

 バナナドルとは、軍政下で日本軍が正貨に代えて流通させた「軍票」です。敗戦で無価値になり住民は苦境に追い込まれました。

 「1週間か10日ごとに、彼女たちの身体検査があった。半袖ブラウスの格好で通りを歩いて病院までいった」。軍の慰安所では「検梅」といわれる性病の定期検査がありました。

虐殺が激発

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 英領だったマレー半島は日本軍の占領後、軍政が敷かれ、1943年からシンガポールに置かれたマレー(馬来)軍政監部が半島全体を管轄していました。この軍政監が制定した「慰安施設及旅館営業取締規定」に「稼業婦に対し毎週一回検黴(けんばい)を行うべし」(第21条)という規定があります。梁さんの「1週間か10日ごとに」という証言と符合します。

 なぜ日本軍は、占領するとすぐに「慰安所」を設置したのか―。それは第2次上海事件から1937年に南京大虐殺をひきおこす南京城占領にいたるまで、中国各地で住民の虐殺、強姦(ごうかん)が激発し、深刻な反日感情を「激成」させたからでした。マレー半島ではその「教訓」から軍が駐屯する都市などに「慰安所」を設置したのです。しかし、中国系住民への殺りくはつづき、強姦事件はあとを絶ちませんでした。(つづく)


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