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2019年8月22日(木)

昭和天皇「拝謁記」公開

戦争責任 国民的議論を

写真

(写真)1952年1月11日付の「拝謁記」。「お言葉」に「反省といふ字」を入れる意向が語られたとする部分

 NHKがこのほど一部公表した田島道治初代宮内庁長官が昭和天皇とのやりとりを記録した手記(「拝謁記」)には、侵略戦争の責任をめぐる昭和天皇の極めて矛盾した心情がつづられています。

「反省」表明望む

 田島氏の手記で注目されたのは、昭和天皇がサンフランシスコ平和条約発効後の日本の独立を祝う式典で戦争への「反省」の気持ちを表明したいと田島氏に伝えたものの、当時の吉田茂首相の反対で削除されたとされる部分です。

 昭和天皇は生前、公には戦争への反省を表明したことは一度もありませんでした。記者会見で戦争責任を問われても、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないので、良くわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」(1975年10月31日)と回答を拒否していました。

 手記によれば、昭和天皇は「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」(52年1月11日)などと強く希望しながら、吉田首相が「戦争を御始めになつた責任があるといはれる危険がある」などと反対し、昭和天皇が戦争への「反省」を述べた一節が削除されたとされます。

 もし昭和天皇が戦争への「反省」を当時、曲がりなりにでも表明していれば、日本の行った戦争が「自存自衛の戦争」「アジア解放の戦争」だったなどの誤った歴史認識がいまだに「靖国派」などを中心に主張されている今日の状況が大きく変わっていた可能性があります。昭和天皇の開戦責任を回避するため、吉田首相が昭和天皇の「反省」を封印した事実は重大です。

責任を全面転嫁

 同時に、手記は、戦争への「反省」を述べながらも、自己弁護を繰り返し、陸海軍の統帥者として侵略戦争に直接の責任を負っていたことへの自覚がまったく見られない昭和天皇の姿を示すものとなっています。

 例えば日本軍による南京虐殺事件(1937年)について昭和天皇は「ウスウス聞いてはゐ(い)た」が、「此事(このこと)を注意もしなかつた」と、日本軍の蛮行を当初から知っていながら問題を放置していたことを語っています。

 日米開戦(1941年)をめぐっても、自らが出席した「御前会議」で開戦が決定されたにもかかわらず、「平和を念じながら止められなかった」「東條内閣の時ハ既に病が進んで最早(もはや)どうすることも出来ぬといふ事になつてた」(51年12月14日)と述べているばかりか、「太平洋戦争ハ近衛が始めたといつてよいよ」(52年4月5日)と近衛文麿元首相に責任を全面転嫁しています。

 さらに、戦局が絶望的になりながら無謀な戦争を継続したことについて「私ハ実ハ無条件降伏は矢張(やは)りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたやうな時ニ其(その)時を見付けたいといふ念もあつた」(52年3月14日)と告白していますが、その結果、東京大空襲や沖縄戦、広島・長崎への原爆投下など筆舌に尽くしがたい惨禍を招いたことへの反省はうかがえません。

 それどころか、終戦をもっと早くできなかったのかという疑問に対し、「事の実際としてハ下剋上(げこくじょう)でとても出来るものではなかつた」(51年12月17日)と述べて、自己の責任をあくまで否定しています。

 今回の手記の公開を機に、侵略戦争の責任がどこにあったのか、昭和天皇の役割と責任はどうだったのか、改めて国民的な検討と議論が求められます。

再軍備など求め

 手記にはさらに、昭和天皇がたびたび改憲と再軍備に言及し、「吉田ニハ再軍備の事ハ憲法を改正するべきだといふ事を質問するやうにでもいはん方がいゝだらうネー」(52年2月18日)などと述べ、田島氏から「憲法の手前そんな事ハいへませぬ」などといさめられたことも記録されています。

 天皇の地位が戦前の「統治権の総攬(そうらん)者」から新憲法の下で「象徴」へと変わり、「国政に関する権能を有しない」ことになったことを昭和天皇が理解せず、戦前の元首意識を多分に残していたことをうかがわせる内容です。

 今回、NHKが公開したのは、田島氏の計18冊の手帳・ノートの内容の一部にすぎません。研究者や市民が触れることができるよう、内容を全面的に公開することが望まれます。(入沢隆文)


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