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2019年1月3日(木)

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命つなぐ農業めざす

有機栽培の会津米を提供する 渡部よしのさん(62)

写真

(写真)田んぼとともに、ほんわか笑顔を見せる渡部よしのさん

 福島県会津地方。磐梯(ばんだい)山、飯豊(いいで)山麓に囲まれた会津盆地は、有数のコメどころ。雪深い喜多方市の渡部よしのさん(62)は、20年前から、農薬や化学肥料を使わない、有機栽培でコメ作りに取り組んでいます。甘み、光沢、粘り気があり、「冷めてもおいしい」と評判です。

 「福島県産品への不安は覆せない。少しでもイメージをよくしたい」―。渡部さんは東京都世田谷区にたびたび出向き、有機栽培ネットワークの店でコメを販売していました。群馬県生まれ。大学で専業農家の長男、夫の仁貴(じんき)さん(65)と出会い結婚。専攻は教育学で農業とは無縁でした。現在は会津農民連の女性部会長を務めます。

摂理に従う

 有機栽培へのこだわりは、殺虫剤で田んぼのカエルが死んでしまったことがきっかけ。命をつなぐ食料を生産しながら、別の命を殺してしまう矛盾。

 「人間にだけ都合のいい農業ではなく、田んぼの周りの命とともに生き、生産したものも安心して食べていただけ、自然の摂理に従って農民として生きる。それが無理なら農業をやる価値がない」。渡部さんは決意しました。

 最初はうまくいかず田んぼは、雑草まみれの状態。稲はぱらぱらで草のほうが元気。5反(1反は約990平方メートル)ぐらいから始め収量は4俵。収入激減に仁貴さんも「こんなことやって何になるんだ」と否定的に。地域農家からは「有機栽培というのは放任栽培じゃねぇよな」と失笑を買う始末でした。

 渡部さんは「後には戻れない」と無農薬無化学肥料栽培の勉強会に参加。栃木県の民間稲作研究所に通い、「抑草対策」の技術を学びました。肥料もコメぬかと油粕を発酵させた自家製。有機JAS認定を受け、7町歩(1町歩は9900平方メートル)作っています。

被災の無念

 2011年3月11日、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が起きます。目に見えない放射能の不気味さが襲います。有機農業ネットワークで放射能測定機器を導入し測定。安全な会津のコメでも「孫がいるから」「放射能の値は大丈夫でも福島のイメージがね」とお客様の3割が離れていきました。

 渡部さんは友人に「避難しないの」と聞かれ驚きました。「会津の地でも避難なのか…。この田畑も、小さな生き物も捨てて、自分だけ安全な場所にいく意味があるのか…」と自問。

 原発と真剣に向き合って来なかったことを反省し、浜通りの被災地を訪問。「耕すことが好きで耕したいのに耕せない」―。被災農家の「無念さ」に胸が痛みました。

 渡部さんが訪ねた阿武隈高原に開けた飯舘村。冷害に遭いやすく「飯舘牛」をブランド化しました。そこに放射能が降り、強制避難、表土をはぐ除染が始まりました。

 知人の80代女性は渡部さんに「俺は田畑を耕し牛も飼ってきた。牛の堆肥を田んぼに入れて土づくりを長年やってきた。その大事な『土』が、あの黒い袋(除染袋)の中に入っちまっただー。俺の“人生”がみんなあの袋に入っちまったようなもんだ」と悲痛な心を明かしました。

 渡部さんは大規模農家を育成する国の政策を批判します。「会津に来た頃は農業に活気があった。コメの値段も上がった。田植え、稲刈り、家族総出でわいわい、笑い声がはじけ、なごやかに話をする雰囲気があった。小さな農家が大事にされ農村が活性化する。命に対するまなざしを大事にする社会じゃないと持続していかない」と確信しています。(遠藤寿人)


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