しんぶん赤旗

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日本共産党

2018年6月23日(土)

主張

沖縄戦終結73年

「基地のない平和な島」実現を

 きょう23日は、アジア太平洋戦争末期の沖縄戦が事実上終結して73年です。沖縄戦は、国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦がたたかわれ、「ありったけの地獄を集めた」と形容されるほど凄(せい)惨(さん)を極めました。米軍の艦砲射撃など「鉄の暴風」が吹き荒れ、県民の4人に1人、約12万2千人が犠牲となりました。米軍は、私有財産の没収を禁じた国際法(ハーグ陸戦法規)も無視して県民の土地を奪い、広大な基地を建設しました。戦後73年たってもなお、沖縄本島面積の約15%を米軍基地が占めています。「基地のない平和な沖縄を」の声を大きくする時です。

歴史ゆがめる動き許さぬ

 1945年6月23日は、沖縄戦で日本軍の組織だった抵抗が終わった日とされます。米軍は沖縄を占領した際、県民を各地の収容所に強制的に入れ、その間に軍用地ばかりか民有地にも基地を建設していきました。米軍の占領継続を認めたサンフランシスコ条約が締結された51年以降、米軍は「銃剣とブルドーザー」によって、抵抗する住民を排除し、家や農地を押しつぶし、基地を拡張しました。

 今、名護市辺野古への「移設」=新基地建設が大問題になっている普天間基地(宜野湾市)も例外ではありません。

 普天間基地が建設された場所は戦前、役場や学校、病院、郵便局などがありました。当時の宜野湾村には22の字(あざ)があり、普天間基地はそのうち14の字にまたがる村の中心部に建設されたといいます。疎開したり、収容所に入れられたりしていた村民は終戦後、帰村を許されますが、米軍基地へと変わり果てた古里に戻ることができず、基地を取り囲むように家を建て生活せざるを得ませんでした。

 米海兵隊のネラー総司令官が「普天間基地は非常に古く、第2次世界大戦にさかのぼる。建設時の写真を見ると、数キロ内に人は住んでいなかった。今は市街地が基地のフェンスまで迫っている」(5月2日の記者会見)と述べ、歴史の事実をゆがめる許し難い発言だと批判を浴びたのは当然です。

 72年の日本復帰後も「基地の中に沖縄がある」という現状は変わりませんでした。県民は戦後73年間、米軍基地の存在によって、米兵の凶悪犯罪や米軍機の墜落などの事件・事故、深刻な騒音被害や地域振興の阻害といった過酷な負担を背負わされてきました。

 市街地に囲まれ、「世界一危険」な普天間基地は無条件返還が当然であり、辺野古に新たな海兵隊基地を造るのは許されない―。こうした県民の民意は、沖縄の苦難の歴史の上に形成されたものです。

平和の劇的な情勢の中で

 今、沖縄の米軍基地をめぐる情勢は大きく変わりつつあります。朝鮮半島での平和の激動の下、「抑止力」という政府の新基地建設の口実は崩れつつあります。

 翁長雄志知事は、沖縄戦最後の激戦地・摩(ま)文(ぶ)仁(に)の丘にある平和祈念公園(糸満市)で開く追悼式(23日)を前に、「戦争体験を継承し、平和を希求する沖縄の心を発信する」こととともに、埋め立て承認の「撤回」を含む辺野古新基地阻止の決意を改めて表明しています。知事の決意を支え、新基地の是非を問う県民投票の成功を目指す運動などを大きく前進させ、11月の県知事選で翁長県政を守り、発展させることが何より必要です。


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