しんぶん赤旗

お問い合わせ

日本共産党

2018年6月23日(土)

2018とくほう・特報

沖縄 きょう73年「慰霊の日」

次世代へ基地なくしたい

 沖縄は23日、沖縄戦から73年の「慰霊の日」を迎えます。悲惨を極めた地上戦となり、住民の4人に1人が犠牲になった戦争体験と平和への思いを継承する学習など諸活動がさかんです。「次世代のため戦争の基地をなくすことが本当の“慰霊”だ」と異口同音に語ります。(阿部活士)

国策の犠牲者

写真

(写真)具志堅さんがガマで発掘した沖縄戦戦没者の遺骨=17日

 「日本兵(軍隊)より住民の犠牲が多く、どこでだれが亡くなったか分からないのが沖縄戦だった」。こう話すのは、沖縄戦戦没者の遺骨を発掘して家族のもとにかえす運動をしているボランティア団体「ガマフヤー」代表者の具志堅隆松さんです。ガマフヤーとは、沖縄言葉で「ガマ(自然壕(ごう))を掘る人」という意味です。具志堅さんは大雨後の17日、沖縄戦で激戦地だった県南部・糸満市にある大城丘陵で2カ月前に新たに遺骨を発掘したガマを再調査しました。

 そのガマは、住宅地から急斜面の森を10分ほど登ったところにありました。具志堅さんはガマに流れ込んだ土砂や石を外に搬出する作業を1カ月続け、深さ2メートルになった空間の底に頭蓋骨の一部や鎖骨、上腕骨を見つけました。

写真

(写真)ガマの前で遺骨のことを考える具志堅さん=17日

 「遺骨の主は、ベルトのバックルやボタンなどから住民でなく日本兵らしい。上腕骨の長さから身長を推測すると170センチか」と具志堅さん。名前を特定できる遺品は発掘できていません。

 取材した日も、バケツで数回土砂を搬出すると新たに骨盤の一部を発掘しました。遺骨に手を合わせ黙とうする具志堅さん。

 「ここで戦争があったんです。いまも遺骨が発見されるのは、沖縄戦が終わっていないということです。国策で召集し死なせた人です。政府は国策の犠牲者を放っておいていいんですか。遺骨収集は私のやることではなく国がやることです」。静かな口調で怒ります。国の責任で県内の緑地などを発掘調査し、遺骨のDNA鑑定をして家族のもとにかえすべきだと訴えます。

「平和を希求」

 沖縄県は、「学校教育における指導の努力点」の大項目の一つに「平和を希求する心を育む」「平和教育の充実」を掲げています。県教育委員会によれば、県内すべての公立小中学校で沖縄戦を中心にした平和学習が行われています。

 名護市立名護小学校は19日、6学年147人全員の平和学習を行いました。

 同校の大城勝校長は、いまの児童は73年前の沖縄戦当時を、江戸時代などと同じように“戦争時代”という歴史の学習として考えるむきがあるといいます。「沖縄戦を身近な自分ごととしてとらえさせる平和学習が私ども学校の課題であり責任だと思っています」と大城校長は、いいます。

本当の“慰霊” 学びあう

写真

(写真)平和学習として少年護郷隊之碑を見学する名護小の6年生=19日

 平和学習のテーマは「やんばるの少年兵・護郷隊」です。講師は、名護市教育委員会の市史編さん係の川満彰さんです。護郷隊とは沖縄守備軍とは別に、大本営の特殊任務をもつ陸軍中野学校出身者を責任者にやんばるで遊撃戦(ゲリラ戦)をした秘密部隊でした。国頭3村(国頭、大宜味、東)と金武町、恩納村全域から10代が少年兵として召集されました。名護小学校裏には、「少年護郷隊之碑」があり、犠牲者の名前が刻まれています。

 護郷隊の公的記録がないなか、川満さんらは関係者の聞き取りなどをして、その実態を名護市史叢書(そうしょ)『語りつぐ戦争3』にまとめました。少年兵の最年少は14歳でした。

 川満さんの話のあとに、児童から「慰霊の日って何の記念日ですか」と質問が。「沖縄戦が終わった日だよ」と別の児童の答えにたいし、川満さんは「6月23日がすぎても戦闘が続いたよ。沖縄戦で亡くなった人をなぐさめ、もう戦争はしないと誓う日ですね」。

 本当の“慰霊”とはなにか。講演後、川満さんは「戦争に関連するものを取り除くこと。基地のない島にしないといけない。最大の人災が基地。これをなくすことです」と即座に話しました。

敵前に学徒

写真

(写真)来館者に説明する普天間館長=18日

 戦跡観光や修学旅行コースの中にある資料館でいちばん入館者が多いのが、ひめゆり平和祈念資料館です。年間全国から約59万人が入館し、小中高2026校が団体入館(2017年度)しています。

 館長の普天間朝佳さんは、修学旅行生に心がけている呼びかけがあります。「戦争は兵士やおとながやるものだと思っていませんか。実は、戦場に動員されたのはあなた方の世代です」

 師範学校女子部・第一高等女学校の生徒は3月に「ひめゆり部隊」として南風原(はえばる)町にある陸軍病院に動員され、負傷兵の世話から水くみまでしました。戦況が悪化し日本軍の南部撤退にともない、ひめゆり部隊も病院とともに南部へ、山城など6カ所の壕(ごう)に入ります。米軍が間近に迫るなか6月18日夜半、学徒に突然の「解散命令」を出しました。砲弾の飛び交う壕の外、敵の目前に放り出されたのです。3月から解散命令を受けるまでの犠牲者19人にたいし、解散命令後の数日で100余人が亡くなりました。

 当時21あった中学校の男女生徒も、「鉄血勤皇隊」「通信隊」として動員されました。

 普天間館長は、「ひめゆりの生徒らの犠牲を“自分ごと”として捉えてほしい。日本が戦争する国になると心配する人もいます。戦争を起こさせないためにはどうすればいいのか。考えるおとなになってほしい」と話します。

“共感共苦”

 教員をめざす学生が多い琉球大教育学部。18日、山口剛史准教授の「平和教育学概論」の講義には20人の学生が受講していました。

 「いかに暴力のない世界をつくるか。平和教育学とは平和の主体形成をめざす学問です。平和教育の“核”は、人権と民主主義です。人権を大事にした社会をつくる市民を養成するのが平和教育です」と山口さん。続けて、こうアドバイスします。

 「最大の暴力である軍隊との共生はありえない、というのが、住民が被害者となった沖縄戦と米軍支配を体験した沖縄の平和学の研究・実践の到達点です。軍隊や基地は本当に必要か。いまの沖縄の状況につながる問いかけです。しかし、現場の平和学習ではその結論のおしつけでなく、いまの若い世代や子どもたち自身が“共感共苦”できる学びから結論をえることが大事です」


pageup