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2018年6月21日(木)

沖縄戦終結73年 全身に弾痕

歴史見続けるシーサー

「命どぅ宝」 今、新基地反対の力に

 太平洋戦争で住民をまきこんだ唯一の地上戦となった沖縄戦。県民の4人に1人が犠牲となりました。23日は沖縄戦終結から73年。激戦地の一つ、県南部の八重瀬町にある、全身を弾痕で刻まれた石彫大獅子(シーサー)。住民の“守り神”にうがたれた弾痕は旧日本軍のものと言われています。物言わぬ生き証人から伝わったのは―。(山本眞直)


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(写真)今も弾痕が痛々しい座像の左側

「耐え難い」役を

 石彫大獅子は、同町富盛地区の小高い森に1689年(尚貞王21年)に火除けの獅子として設置され、「富盛のシーサー」(沖縄県の有形民俗文化財)として320年以上にわたって地域を見守ってきました。

 しかし沖縄戦では「耐え難い」役を背負されました。

 それを象徴する写真があります。八重瀬町の前身、東風平町の町史「戦争体験記」(1999年3月発行)の巻頭写真です。

 沖縄守備軍(第32軍)の防衛線となった八重瀬岳(標高160メートル)をめぐる米軍との激戦で、「富盛のシーサー」を盾に日本軍と対峙(たいじ)している様子を収めた米軍撮影の写真です。白い点々は日本軍が撃ち込んだ機銃掃射の弾痕です。

 米軍の海と空からの無差別爆撃、日本軍との本格的な地上戦で、住民を巻き込んだ総動員戦による八重瀬町民の犠牲は人口の半分に当たる5000人に。町民の2人に1人が命を奪われるという凄惨(せいさん)な「戦場」でした。

 沖縄戦で多大な犠牲を許してしまった「富盛のシーサー」。その無念を薄め、いつしか県民の守護神としての威厳をとりかえしています。

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(写真)「富盛のシーサー」を盾に日本軍と対峙する米軍。白い部分は日本軍による機銃掃射の弾痕(東風平町史から)

「捨て石」の犠牲

 「富盛のシーサー」には平和ツアー、中高生によるフィールドワークなどが訪れます。そこでのガイド、沖縄戦体験者が、沖縄を本土防衛、天皇制維持のために編み出した県民総動員による「捨て石作戦」の“仕組み”を語ります。

 八重瀬町ガイドの会の男性(80)もその一人。7歳で沖縄戦に巻き込まれた経験から、富盛のシーサーもその犠牲者との思いを実感しています。「避難壕(ごう)では軍が好位置を占め、鬼畜米英のデマを流しながら、壕に従軍慰安婦を連れ込み、島民の怒りをかった。米軍が迫ると島民は軍から壕追い出しを受け、母が率いる祖母、弟の4人は艦砲弾の飛び交う戦場をさまよった」

 八重瀬町は今、地上戦の悲惨を町民の体験談で残すための聞き取り作業を進めています。それを担当する若い学芸員が力を込めて言いました。

 「富盛のシーサーはあの激戦のなか弾痕でハチの巣状態だが、原形をしっかり保ち、八重瀬の歴史を見続けている奇跡の獅子だ」

戦争止める人間

 戦後、過酷な米軍政とたたかい日本復帰を勝ち取り、日米両政府による名護市辺野古・大浦湾での新基地建設強行に断固としてノーをつきつける県民のゆるぎない意気込み。

 八重瀬町では「新基地建設許さない島ぐるみ会議 八重瀬の会」の動きが活発です。

 沖縄戦終結から73年。県民は沖縄戦の体験から「命どぅ宝」(いのちこそが宝の意味)を信条にしてきました。「戦争をおこすのも人間だが、戦争を止める努力ができるのも人間」という言葉が「富盛のシーサー」を見ながらよぎりました。


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