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日本共産党

2018年5月21日(月)

パレスチナ難民70年

故郷追われた80万人

「私たちは必ず戻る」

 今月は、イスラエル建国でパレスチナ人約80万人が故郷を追われて難民となってから70年の月です。この間、ヨルダンの首都アンマン、パレスチナのガザ地区で難民の話を聞きました。いずれでも、「ヤファ出身」という難民に出会い、彼らは故郷への思いを胸に秘めていました。ヤファは歴史ある港を中心とした地域。1948年の建国前に数万人が離散していました。(カイロ=小玉純一 写真も)


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(写真)鍵の模型を示すオム・カタブさん(右)と息子のモハメドさん=4月11日、ガザ

 ガザの難民キャンプに住むオム・カタブさん(85)は、6畳ほどの窓のない部屋でたたずんでいました。彼女がまず話したのは9~10歳の思い出でした。近隣の子どもたちと海辺などで遊びました。

 ソニヤ、マリア、サルブク―。友だちの名前もすらすらと出てきます。友だちの家族はユダヤ人やキリスト教徒で、彼女の家族はイスラム教徒でした。

 それがイスラエル建国を控え激変します。ユダヤ人が襲ってきました。彼女と家族は他のパレスチナ人と小舟でガザへ逃げました。

 ガザはエジプトの統治下のあと、67年から94年までイスラエルの直接占領下でした。その間はイスラエルと隔てるものがありませんでした。

 彼女はその状況で80年代にヤファの家を訪ねたことがあります。息子のモハメド氏(55)が同伴しました。

 家にはユダヤ人女性が住んでいました。彼女が住んでいたことを告げると、女性は大変驚いたようすで、イスラエル政府発行の居住許可証を見せました。彼女は静かにその場を去ったといいます。

 彼女は回想の途中、座っていた古びたソファの隙間から、家の鍵の模型をおもむろに出しました。「私たちは必ず戻ります」と書いてあります。

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(写真)ナセル・ガダラ氏

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 ヨルダンの首都アンマンの難民キャンプで出会ったナセル・ガダラ氏(54)は雑貨店を営んでいます。

 彼の話では、母方の祖父の土地は今日、イスラエルのテルアビブ国際空港の施設の一部になっています。

 祖父はヤファで、イスラエル建国後もレモンやオレンジを栽培していました。ところが1967年のイスラエルとアラブの戦争の後、イスラエルは空港の拡張のため、祖父の土地を強引に奪いました。土地を失った一家はアンマンの難民キャンプに流れつきました。

 「祖父は48年の前から、そこで暮らしていた。イスラエルの事務所に行けば、祖父がその土地の所有者だった記録があるはずだ。土地を私たちに返してほしい」

 そう話す彼の眼には、うっすらと光るものがありました。

 彼と同じ難民キャンプで4人の若者にも話を聞くと、全員が「祖父母はヤファから来た」と言いました。

 若者たちは、ヤファはもとより、いまのパレスチナにも行ったことがありません。ヨルダンとパレスチナの境界を管理するのはイスラエルです。同国が彼らのパレスチナ入りを許しません。

子どもに継ぐ

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(写真)イスラエル国旗が掲揚されたヤファの旧市街=4月13日

 ガザの若者たちも、イスラエルとガザの境界を越えらません。境界に近づくだけでイスラエル兵の実弾を浴びます。

 ガザの人々は3月末から難民の帰還を訴える行動を始めています。イスラエル軍は15日までに107人を殺し、国際的非難を浴びています。

 イスラエル建国は14日です。トランプ政権は、この日を選んで、在イスラエル大使館をエルサレムに移しました。アラブのテレビで評論家が当日、「パレスチナへの侮辱だ」と指摘していました。ガザの人々の行動にも侮辱への憤りがあります。

 パレスチナの人たちは、70年前の故郷喪失をナクバ(大災厄)と呼び、毎年5月15日をナクバの日として想起してきました。

 今月15日、ヨルダン川西岸北部での集会で、活動家のマハムード・サワフタ氏は、こう決意を示しました。「『おとなは死ぬ。子どもは忘れる』と占領者が思ったら間違いだ。子どもたちには引き継がれていくからだ」「占領とたたかい続ける。占領者は敗北する」

パレスチナとは

 パレスチナはイスラエル建国前のヨルダン川と地中海の間の地域。パレスチナ人とはその地に住んできた人たちとその子孫です。主にアラビア語を母語とするアラブ人で、イスラム教徒とキリスト教徒が中心です。

 ユダヤ人とは中世ではユダヤ教徒のことでした。今日、定義が難しく、イスラエルでも議論があります。ロシア系、ドイツ系、アフリカ系など多様です。

ナチスの迫害も

 パレスチナにユダヤ人の国をつくろうというシオニスト運動が欧州で19世紀に始まり、ユダヤ人がパレスチナに移りました。ナチスの迫害から逃れようという事情も拍車をかけました。

 パレスチナ人の人口は1948年に約140万人。うち約80万人が離散しました(パレスチナ当局の14日の発表)。今日、その子孫を含めて国連に登録するパレスチナ難民は約500万人余。ヨルダン、レバノン、シリア、ヨルダン川西岸、ガザなどで暮らしています。

 イスラエル建国後もイスラエルにいるパレスチナ人(アラブ人)は今日、約180万人。イスラエルの人口の約2割です。

屋根のない監獄

 今日のパレスチナのヨルダン川西岸地区とガザ地区の人口は500万人近く。

 ガザ地区は地中海に沿って約40キロ強、内陸側に向け10キロ弱。人口は約200万人で7割が難民です。イスラエルが人と物の出入りを厳しく制限しており、「屋根(天井)のない監獄」と呼ばれます。

 失業率は約44%。15~24歳では約65%(14日発表)。

パレスチナ関連略年表

1948年 イスラエル建国でパレスチナ人が難民に

1967年 第3次中東戦争で、イスラエルがヨルダン川西岸などを占領

1993年 イスラエルとパレスチナが暫定自治合意

2007年 イスラエルがガザの軍事封鎖を始める

2012年 パレスチナが国連のオブザーバー国に

2017年 米がエルサレムをイスラエル首都と認定

2018年 米が大使館をテルアビブからエルサレムに移転


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