しんぶん赤旗

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日本共産党

2018年5月14日(月)

シリーズ 憲法の基礎

砂川事件 安保違憲判決の衝撃

 1955年、東京の立川米軍基地の拡張計画が浮上しました。米軍がジェット機を採用したため、滑走路の拡張が必要となったのです。政府は、周辺の砂川町の農地を土地収用米軍特別措置法の発動で強制的に取り上げ、拡張工事を進めようとしました。

 これに対し砂川の農民と町議会が抵抗し、労働組合や学生がこれを支援して激しいたたかいとなります。57年、土地測量が強行されるのに抗議した地元民らが土地内に数メートル立ち入ったとして、国は安保条約刑事特別法―米軍基地を守るための特別の重罰法規を適用して7人を起訴しました。裁判では、刑事特別法の基礎にある日米安保条約の合憲性が問われることになりました。

 東京地裁は59年3月、政府が米軍駐留を許していることは、憲法9条2項が禁ずる「戦力の保持に該当するといわざるを得ず、結局わが国内に駐留する合衆国軍隊は憲法上その存在を許すべからざるもの」と断じました。伊達秋雄裁判長の名をとって伊達判決と呼ばれます。

 岸信介内閣が米国とともに安保改定を目指していた時期に「安保は違憲」との衝撃的判決が出たことで、安保改定に反対するたたかいは盛り上がり、日米政府は動転します。

 マッカーサー駐日米大使は藤山愛一郎外相を呼び出し、田中耕太郎最高裁長官とも密談して、翌60年の安保改定までに最高裁判決で一審判決を覆す策略を相談しました。この事実は、解禁された米国公文書の調査で明らかにされています(2008年)。

 59年12月の最高裁判決は「(9条2項が)禁止する戦力とは、我が国が主体となってこれに指揮権、管理権を行使しうる戦力をいう」として、米軍駐留は憲法違反にならないとしました。“在日米軍は憲法の埒(らち)外”とする最高裁の見解は、立憲主義を自ら破壊するものでした。

 砂川闘争は、日米政府と民衆とのたたかいが憲法9条と日米安保体制をめぐるたたかいであることを多くの人に知らせたのでした。(随時掲載)


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