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2017年9月2日(土)

日本軍戦争跡をたどる

憲兵隊が敗戦後に住民を殺害

戦争犯罪を忘れない

マレーシア マラッカ 「九・五事件」犠牲者の孫が証言

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 16世紀からの欧州諸国とアジアとの貿易と交流で繁栄した街並みが残る世界遺産のまち、マラッカ市(マレーシア)。その近郊の国道5号線脇に、高さ1メートル半ほどの「一九四五年『九・五』殉難史誌」の碑が置かれ、後ろに石のお墓がひっそりと並んでいます。敗戦後に不当に旧日本軍に殺害された人々のお墓です。

 (山沢 猛)


図

 「殉難史誌」には「一九四六年二月十五日 馬六甲(=マラッカ)人民委員会総会」によって建てられたとあります。マラッカの人民委員会は当時の住民のリーダーの組織でした。

 マラヤ共産党系の人民抗日軍のメンバーや国民党員も入った、いわば戦後の混乱から復興するための横断的な組織でした。

 マラッカを訪ねるたびに、この十数基のお墓の草取りをして追悼をしてきた高嶋伸欣琉球大学名誉教授ら「マレー半島・戦争の傷跡を尋ねる旅」一行は8月13日、犠牲者の一人、林揆義の孫の林少彬(リム・シャオビン)さんと再会しました。リムさんはシンガポール在住です。

 「私が奨学金を受けて日本に留学するときになって初めて、祖母から『実はおまえのおじいさんは戦後になって日本軍に殺された』と聞かされました」といいます。

写真

(写真)戦後に旧日本軍に殺害された祖父について語るリム・シャオビンさん(中央)と「マレー半島の旅」一行=8月13日、マラッカ

軍事的な「空白」

 そして「祖父はマラッカ市のリーダーの一人で、人民委員会で民意を知る仕事、いまでいうアンケートをとる主任をしていた。日本軍にとっては軍の行為の告発も出てくるからおもしろくなかったのでしょう。三つの学校の理事をしていたが、一つの学校はいまも同じ名前で残っている」と背景を説明します。

 1945年8月15日に日本軍が降伏したのち、イギリス軍など連合国軍がマラッカに進駐するまでの期間、軍事的な「空白」がありました。

 そのとき、惨劇が引き起こされました。

 マラッカ市に「治安」の名で駐屯していた日本軍の憲兵隊の小隊長は、市街地で住民の若い指導者たちが戦後の貧者対策などを話し合っている、そのなかに「抗日ゲリラ」が含まれているとの情報を得ると、上官たちの制止をふり切って部下を指揮し、それら十数人の人々をとらえました。沖合10キロメートルの海上に浮かぶ小島に連れて行き、殺害しました。

 連行途中、トラックから飛び降りたり、海に船から飛び込んだりして数人が逃げましたが、7人が憲兵に刺殺されて井戸に投げ込まれました。これが「九・五事件」と呼ばれる出来事です。

 「殉難史誌」にはその7人の名前と当時の役職が丁寧に刻まれています。7人は殺されたとき28歳、37歳、34歳、35歳、31歳、35歳、37歳でした。

 祖父が殺害された島が見えるマラッカ海峡の船着き場。リムさんは「祖父は泳げなかったから、逃げたくても逃げられなかったでしょう」。

 憲兵小隊長による住民の逮捕・殺害は、日本降伏後の明白な違法行為、国際法違反です。この小隊長はBC級裁判で戦犯として死刑判決を受けました。最後まで自分の犯した誤りを認めずに処刑されました。他にもう一人処刑されています。

「碑に経緯刻む」

 「殉難史誌」は、「人民抗日軍は各民族の人前に姿を現し、各民族の人々に呼びかけ、人民委員会という組織を設立し、社会の治安を維持したり、失業している人たちを助けたり、日本軍が実施していた厳しい政策を廃止したり、民主主義の精神を発揚したりした」と記しています。

 最後に「ああ、殉難者諸氏よ、尊敬すべき英魂は屈せず、ゆがまず、…きちんとことの経緯を書き、ここに碑を建立して刻むことで、忘れることのないようにした」と結んでいます。

 12月に横浜市で毎年開かれる「アジア・フォーラム横浜」の証言集会。今年は12月9日にリムさんが来日し現地からの発言をする予定です。


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