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2017年3月29日(水)

「ふたたび被爆者をつくらない」核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力ある条約を

2017年3月27日 日本原水爆被害者団体協議会事務局次長 藤森俊希

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 27日、ニューヨークの国連本部で開かれた「核兵器禁止条約の国連会議」での、日本原水爆被害者団体協議会事務局次長の藤森俊希さんの発言を紹介します。


 議長および会議参加の皆さん、発言の機会を与えていただき感謝します。

 私は、日本被団協事務局次長の藤森俊希と申します。1945年8月6日、米軍が広島に投下した原爆に被爆した1人です。

 戦後11年目にして日本被団協を結成した被爆者は「ふたたび被爆者をつくるな」と国内外に訴え続けてまいりました。被爆者のこの訴えが条約に盛り込まれ、世界が核兵器廃絶へ力強く前進することを希望します。

 被爆したときの私は、生後1年4カ月の幼児でした。当時のわが家は祖父、父母、6人の姉、2人の兄と私の12人の大家族でした。空襲を避けるため広島市から避難した2人の姉、2人の兄以外、広島市に残った8人全員が被爆しました。

 13歳で女学校1年だった4番目の姉は、爆心地から400メートルあたりで建物疎開に動員されていて、放射線、熱線、爆風の直撃をうけ、私の姉を含む先生、生徒676人全員が命を落としました。広島市全体では中学1、2年に当たる学徒8400人が動員されて、うち6300人が命を亡くしたとされています。

 私は当日体調を崩し、母に背負われ病院に行く途中、爆心地から2・3キロメートルの地点で母とともに被爆しました。偶然、親子と爆心の間に2階建ての民家があり熱線を直接受けることは避けられましたが、爆風で土手の下まで吹き飛ばされました。母は、私を抱いて近くの牛田山に逃げました。それぞれの出先で被爆した家族が牛田山に逃れてきました。4女が帰ってきません。父、姉、母が、4女の行方を探すため、動員されたであろう爆心地近くに何日も出かけました。姉はついに見つからず、遺体も分からないままです。その間私は、目と鼻と口だけ出して包帯でぐるぐる巻きにされ、やがて死を迎えると見られていました。その私が奇跡的に生き延び、国連で核兵器廃絶を訴える。被爆者の使命を感じます。

 米軍が広島、長崎に投下した原爆によって、その年の末までに21万人が死亡しました。キノコ雲の下で繰り広げられた生き地獄後も今日3月27日までの2万6166日間、被爆者を苦しめ続けています。

 同じ地獄をどの国のだれにも絶対再現してはならない。

 私の母は、毎年8月6日子どもを集め、涙を流しながら体験を話しました。つらい思いをしてなぜ話すのか母に尋ねたことがあります。

 母は一言「あんたらを同じ目に合わせとうないからじゃ」と言いました。

 母の涙は、生き地獄を再現してはならないという母性の叫びだったのだと思います。

 ノルウェー、メキシコ、オーストリアで開かれた3回の国際会議、NPT(核不拡散条約)再検討会議準備委員会、国連総会第1委員会での共同声明など、ねばり強い議論、声明が導き出した結論は、「意図的であれ偶発であれ核爆発が起これば、被害は国境を超えて広がり」「どの国、どの国際機関も救援の術を持たず」「核兵器不使用が人類の利益であり」「核兵器不使用を保証できるのは核兵器廃絶以外にあり得ない」ということでした。

 多くの被爆者が、万感の思いをもって受け止めました。

 核兵器国と同盟国が核兵器廃絶の条約をつくることに反対しています。世界で唯一の戦争被爆国日本の政府は、この会議の実行を盛り込んだ(71/258)決議に反対しました。

 被爆者で日本国民である私は心が裂ける思いで本日を迎えています。

 しかし、決して落胆していません。

 会議参加の各国代表、国際機関、市民社会の代表が核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力のある条約をつくるため、力を注いでいるからです。

 被爆者は昨年4月、すべての国が核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶことを求める国際署名を始めました。世界各国に呼び掛け昨年10月、1回目の署名56万余を国連総会第1委員会議長に届けました。現在累計で172万余の署名が集まっています。億単位の署名を目標に2020年まで続けます。

 法的拘束力のある条約を成立させ、発効させるためともに力を尽くしましょう。

 ご清聴ありがとうございました。


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