「しんぶん赤旗」
日本共産党
メール

申し込み記者募集・見学会主張とコラム電話相談キーワードPRグッズ
日本共産党しんぶん赤旗前頁に戻る

2014年12月20日(土)

沖縄・新段階の「島ぐるみ」闘争 (1)

流れは止まらない

このエントリーをはてなブックマークに追加 Yahoo!ブックマークに登録 mixiチェック

写真

(写真)赤嶺政賢候補(中央)の必勝を訴える翁長雄志県知事(その左)と稲嶺進名護市長(同右)=13日、那覇市

 その場にいた人たちは、歴史の目撃者だと断言できるでしょう。

 2014年12月10日、沖縄県庁。「辺野古の埋め立てはさせない。こういう政策を掲げて本日、知事に就任しました」。1階ロビーを埋めた県庁職員を前に独特の早口で訴えたのは翁長(おなが)雄志(たけし)新知事です。

 1996年のSACO(沖縄に関する日米特別行動委員会)合意以来、県民を翻弄(ほんろう)してきた米軍普天間基地「移設」問題。「県外移設」の公約を裏切って名護市辺野古の埋め立てを承認した仲井真弘多前知事を10万票の大差で破り、辺野古新基地阻止を「県政の柱」(翁長氏)にすえる知事が初めて誕生した瞬間です。

基地撤去まで

 歴史的瞬間はこれで終わりませんでした。

 翁長氏は就任式が終わるやいなや、足早に県庁前広場へ向かいました。そこにいたのは、激戦の衆院沖縄1区をたたかっていた日本共産党の赤嶺政賢候補でした。翁長氏は志位和夫委員長らと並び、こう訴えました。

 「この1区で赤嶺候補を勝利させることが、10万票差の民意を政府に示すことになる」

 14日午後10時すぎ。待ち望んだ瞬間が訪れました。四つの小選挙区で、翁長知事を支える「オール沖縄」勢力が完勝したのです。4人の中で最後に当確が出た赤嶺氏は、こう語りました。「基地おしつけに怒っている県民が、私を勝たせた。辺野古の新基地計画を撤回させ、普天間基地を閉鎖・撤去させるその日まで、この流れは止まらないでしょう」

保守のエース

 沖縄は戦後、米軍占領期から最近まで半世紀以上にわたって、「基地容認」の「保守」と「基地反対」の「革新」との「白黒闘争」が繰り広げられてきたと、翁長氏は語っています。その背景には、沖縄の米軍基地維持をもくろむ日米両政府の分断政策がありました。

 しかし、かつて自民党沖縄県連の幹事長も務め、「保守のエース」と言われた翁長氏が、「県民が心を一つにしよう」と、保守・革新を超えた「オール沖縄」の力に支えられて知事に。そして、翁長氏が那覇市長だった時代の「政敵」でもあった日本共産党の県委員長である赤嶺氏が、今度は翁長氏や、辺野古新基地反対を貫いて自民党を除名された保守系の那覇市議団・新風会などに支えられ、小選挙区を勝ち抜く―1年前、いや、1カ月前でも考えられなかった激動が起こっています。

 なぜ、このような団結が可能になったのでしょうか。

 米軍基地に翻弄されてきた沖縄の戦後史はいま、新たな段階を迎えつつあります。沖縄県知事選と総選挙が示した新時代を検証します。

「強権にも対抗できる」団結の原点

分断克服し「オール沖縄」

写真

(写真) 約8万5千人が参加した「米軍人による少女暴行事件を糾弾し日米地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」=1995年10月21日、沖縄県宜野湾市

写真

(写真)会場をいっぱいにして開かれたオスプレイ配備に反対する沖縄県民大会=2012年9月9日、沖縄・宜野湾海浜公園

 翁長雄志(おながたけし)氏が、「オール沖縄」の原点として、繰り返し言及する歴史的事件があります。1956年の「島ぐるみ」闘争です。

 米政府は49年、在沖縄基地の「長期保有」を決定。50年代から銃剣とブルドーザーによる土地の収奪が進み、56年には軍用地の「一括払い」(事実上の買い上げ)を宣言した「プライス勧告」が出されました。

 「土地を守ろう」―。プライス勧告撤回を求める決起大会が沖縄の各地で開かれ、沖縄人民党(73年に日本共産党に合流)、沖縄社大党に加え、保守勢力である民主党(現・民主党とは別)も一丸となりました。「島ぐるみ」という言葉は、この中で生まれています。

 翁長氏は10日の就任式でも、「当時の保守・革新はみな、心を一つにして、自分たちの土地を売らないと団結して撤回させた」と力説しました。その中には、保守派の重鎮で真和志(まわし)市長(現・那覇市)だった父・助静(じょせい)氏の姿もありました。

 新崎盛暉(あらさきもりてる)・沖縄大名誉教授(沖縄現代史)は「あのたたかいは、必ずしも基地に反対するたたかいとして勝利したわけではなかったが、『島ぐるみ』で団結すれば強力な権力にも対抗できるという強い確信を残した」と指摘します。

復帰勝ち取る

 「島ぐるみ」のたたかいは60年代の復帰闘争へつながり、「不可能」といわれた本土復帰を勝ち取りました。

 しかし、復帰後の沖縄は、軍用地代や公共事業によって恩恵を受ける者とそうでない者に分裂し、基地反対のたたかいも停滞気味になります。

 「再び『島ぐるみ』の機運が高まったのは、米兵による少女暴行事件(95年9月)だった」(新崎氏)

 その後、沖縄戦での集団自決を否定する歴史教科書の撤回を求める県民大会(2007年9月、11万人)、普天間基地の閉鎖・撤去と辺野古「移設」に反対する県民大会(10年5月、9万人)、オスプレイ配備撤回を求める県民大会(12年9月、10万人)と、県内の全政党や自治体が参加する県民大会が繰り返され、いつしか「オール沖縄」という言葉が生まれました。

 昨年1月、翁長氏が先頭になって政府に提出した「建白書」が、その集大成でした。

 これらの最大公約数は、(1)県民の尊厳を傷つけたことに対する憤り(2)これ以上の基地負担は容認できない―という点です。翁長氏は知事選で、こうした思いを「ウチナーンチュ(沖縄県民)の誇りと尊厳」という言葉で表現しました。

“動きだした”

 いま、展開されている「オール沖縄」の運動と、これまでの「島ぐるみ」闘争との大きな違いは何か。新崎氏は二つの点を挙げます。

 「50年代の『島ぐるみ』闘争は、まだ政治的に未分化だった住民が基地に伴う利益誘導で分断され、終息した。しかし、今は『基地は沖縄経済の最大の障害物』という認識が広まり、利益誘導による分断を克服している」

 翁長陣営には、これまで米軍基地の工事も請け負ってきた建設大手・金秀(かねひで)グループの呉屋守将(ごやもりまさ)会長らも結集しています。県収入のうち基地関連は5%未満まで下がっています。

 もう一つは、「選挙と現地闘争が結びついていた」ことだといいます。辺野古で18年にわたって続く非暴力の基地反対のたたかいが、やがて保守・革新を超えた団結の中心になりました。

 翁長氏は10月30日、知事選の「第一声」を辺野古のキャンプ・シュワブゲート前であげ、総選挙で完勝した「オール沖縄」4氏も、ゲート前で座り込みを続ける住民に真っ先に勝利を報告しました。

 11月16日、翁長氏が県知事選で圧勝した直後、こう語ったのが印象的でした。「県民の方が先に進んでいて、私たちを待っていてくれたと思っています。私たちがようやく県民にたどりつき、大きなパワーとなって、沖縄が動きだしました」

 (つづく)


見本紙 購読 ページの上にもどる
日本共産党 (c)日本共産党中央委員会 ご利用にあたって