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2014年10月1日(水)

2014 とくほう・特報

日本の侵略戦争

■第4回■ 「韓国併合」と植民地支配 (下)

湧き起こった「独立万歳」

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(写真)柳寛順ら多数の人びとが獄死した西大門(ソデムン)刑務所正面跡。現在は近代の韓国史を伝える歴史館になっている=ソウル

 韓国の民衆の独立運動は、日本による「併合」後も、地殻変動のエネルギーが蓄えられるように消すことはできませんでした。

全半島に三・一運動

 その頂点に位置するのが、1919年3月1日にソウルで始まり、全半島にひろがった「三・一独立運動」です。1917年のロシア革命の成功、その指導者レーニンやアメリカ大統領ウイルソンが民族自決の理念を主張したこともこの三・一(サミル)独立運動や中国での抗日の五・四運動に影響しました。

 19年1月、日本の侵略にさまざまな抵抗を試みた前皇帝・高宗(コジョン)の死を一つのきっかけとして、朝鮮民族あげての独立運動が一挙に湧き起こりました。民族宗教ともいうべき天道教、キリスト教、仏教の指導者が「独立宣言」を起草。ソウル市街の中心部にあるタプコル公園で、学生代表がその宣言文を朗読、読み終えると「独立万歳」(トンニップ・マンセー)の声が高々と上がり、太極旗を持った人びとが隊列を組んで街中に出て行ったといいます。

 同公園の石碑に刻まれた宣言文は次のように始まります。

 「われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自主の民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである」

 在日韓人歴史資料館館長で歴史家の姜徳相(カン・ドクサン)氏はいいます。「三・一運動は憲兵政治の支配のもとで、いわば入れ物の水がいっぱいになってあふれでるようにして起きたもの。同時に、第1次世界大戦末期のロシア革命や中国革命の進行、ウイルソンの民族自決権の宣言にも影響をうけています。被抑圧民族の解放という世界史の歩調と足並みをそろえる方向に展開したのです」

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(写真)独立を求める民衆と日本憲兵の弾圧を描いたタプコル公園のレリーフの一つ。写真は、慶尚南道の普州でのキーセン(妓生)の行進

非暴力・女性の活躍

 三・一独立運動は非暴力の運動でした。当初、この動きを察知できなかった総督府はうろたえましたが、にわかに軍隊を出動させ、武器を持っていない行進者に銃剣を向け発砲しました。なかでも凄(せい)惨(さん)を極めた事件の一つに堤岩里(チェアムニ)事件があります。ソウルの南にあたる水原(スウォン)地方の運動を鎮圧するために派遣された日本軍は独立運動に参加した人びとを「訓示する」といってキリスト教会に集め、建物に火を放ちいっせい射撃で皆殺しにしました。29人が犠牲になりました。

 三・一独立運動では女性がめざましく活躍しました。その一人、柳寛順(ユ・グァンスン)は“朝鮮のジャンヌ・ダルク”といわれます。当時、梨花学堂(現梨花女子大学校)に在学中の16歳の少女でしたが、休校にされると郷里の天安(チョナン)にもどって市場で人びとと独立行進をしてその先頭に立ちました。憲兵の発砲で両親は死亡、彼女は首謀者として逮捕され懲役刑に。しかし「日本人にわれわれを裁く権利はない」と法廷・獄中闘争をやめず、度重なる拷問がもとで、西大門(ソデムン)刑務所で18歳の生涯を閉じました。

 タプコル公園では各地の独立運動の群像が10枚のレリーフになり、その姿を伝えています。

 三・一運動後のたたかいは、朝鮮と国境を接する「満州」間島での独立運動、中国・上海での臨時政府などに引き継がれます。

「戦時動員」「皇民化」

 民族あげての三・一独立運動などによって、日本の植民地支配は一歩後退を余儀なくされ、従来の「憲兵警察政治」(武断統治)を、親日派の育成を含む「文化政治」に改めることになります。

 しかし、1931年の「満州事変」、37年の日中全面戦争が起きるとその文化政治も続けられなくなり、「戦時動員体制」、野蛮なファシズム体制へと転換します。この体制は、日本への米輸出を増大させ韓国の人びとを疲弊に追いやった「産米増産計画」などの物資面にとどまらず、労働力・兵士の確保に及びました。労働力不足になった日本の炭鉱、鉱山、軍事施設などに多数の朝鮮人労働者を強制的に動員したこともその一環です。その数は百万人以上といわれます。

 ソウルの「朝鮮神宮」をはじめ各地に2000以上の神社をつくり天皇崇拝の参拝を要求するなど「皇民化政策」をすすめました。その具体化として日本語の「国語常用」、「創氏改名」、「色衣奨励」(韓国の伝統的な白い衣装から色の着いた衣装に替える)をすすめました。

 1936年に関東軍司令官から朝鮮総督になった陸軍大将・南次郎(のちにA級戦犯)は、朝鮮での徴兵制実施、昭和天皇の行幸を目標にかかげ、小学校での朝鮮語の廃止など「内鮮一体化」の名で民族抹殺政策を推進しました。

 姜徳相氏は「日中全面戦争の開始以降はとくに、『校門は営門(兵営の門)につうじる』として小学校での日本語教育を徹底して、長ずれば日本の兵士になれるようにした。私も中学生で日本の必勝を疑わなかったし陸軍幼年学校を希望していた。少国民教育は恐ろしい効果を持っていました」といいます。

 韓国・朝鮮では徴兵制によって44年から終戦まで、40万人の青年が日本の軍人・軍属としてアジア・太平洋戦争に動員され、そのうち2万人が犠牲になりました。(樋口雄一『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』総和社)

 また、日本軍の統制と監督下で「慰安所」がつくられ多くの朝鮮人女性が本人の意思に反して軍「慰安婦」となることを強制されました。日本政府が慰安婦制度の真実を正面から認め、「河野談話」が表明した痛切な反省と心からのおわびにふさわしい行動をとることが求められています。

 1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏した日、韓国にとっては植民地支配から解放され、民族の独立を回復する「光復」の日を迎えました。ソウルの街は歓喜に沸き、「万歳」(マンセー)、「万歳」の声が響きわたりました。

 (山沢猛)


 第1回8月2日付、第2回23日付、第3回9月23日付に(上)。


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