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2014年8月22日(金)

きょうの潮流

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 そのとき、平良(たいら)啓子さんは小学4年生でした。おばあさんの膝枕で寝ていると、突然ボーンという大きな音。船は燃え、たくさんの子どもたちの声が聞こえてきます。「お母ちゃん助けて」「先生どこにいるの」▼1944年8月22日。学童疎開のために那覇から九州に向かった対馬(つしま)丸は米潜水艦の攻撃を受けて沈没しました。1485人が犠牲になり、そのうち780人が、今の小学1年から中学2年までの子どもたちでした(「対馬丸記念館」)▼真っ暗な海に落ち、いかだにつかまりながら6日間、大海原を漂流。絶望のふちで助けられた平良さんは数少ない生き残りの1人です。同じ村から40人が疎開しましたが、生還したのは3人だけでした▼当時、米軍にサイパン島を占領された日本政府は、次は沖縄が戦場になると判断し、10万人の疎開を決めました。増員で膨れ上がった兵隊の食料を確保するためです。対馬丸は学童疎開の第1陣でした▼家族や友を失い、やっとの思いで地を踏んだ遭難者たち。そこに追い打ちをかけたのが、かん口令でした。軍機保護法のもとで撃沈は公表されず、憲兵から「漏らしたら軍法会議にかけて死刑にしてやる」と脅された船員もいました▼以前から、沖縄の疎開船は次々と撃沈されていました。それが秘密にされていなければ…。70年前の悲劇が現在に発する警告です。対馬丸の語り部として、大宜味(おおぎみ)9条の会の代表として、反戦平和を訴えつづける平良さん。「この命尽きるまで」と海に誓いながら。


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