2011年2月20日(日)「しんぶん赤旗」

主張

3・1ビキニデー集会

原水爆禁止運動の原点に立ち


 1954年3月1日、太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁でおこなわれたアメリカの水爆実験で被災した日から、57年目をむかえます。

 3・1ビキニデーにあたって、被災半年後に亡くなったマグロ漁船・第五福竜丸の久保山愛吉さんらを追悼し、核兵器廃絶への誓いをあらたにする集会が静岡県焼津市などでひらかれます。

今日なお問われ続ける

 広島型原爆の千倍といわれるビキニ水爆実験がもたらした被災は、今日もなお問われつづけなければならない課題です。

 この水爆実験による「死の灰」がアメリカ本土にも到達し、放射性物質が世界規模で広がっていたことが、アメリカの公文書によって明らかになりました。放射性降下物はビキニ環礁から東西に楕円(だえん)状に広がり、日本や米国、アフリカまで灰が降っています。核実験の影響を調査するための記録ではなかったのか、という疑いもあります。

 いずれにせよ核兵器が人類と共存できないことを、はっきりとしめすものです。

 ビキニ環礁の島民は水爆実験にあたり、アメリカによって強制的に他島に移住させられ、現在も故郷の島には戻れていません。多くの住民が住んでいたロンゲラップ環礁などにも「死の灰」が降り、2万人以上が被ばくしたともいわれています。

 島民は放射線による障害を受け、今なお多くの人々がその後遺症に苦しめられています。

 当時、第五福竜丸とともに、近海で操業していた千隻以上の漁船が水爆実験で被災していました。

 全国有数のマグロ漁県である高知で、ビキニ水爆実験で被災した人々の実態調査が市民の手でおこなわれてきました。それによると、被ばくマグロを廃棄した漁船の3分の1は高知県所属の船であり、被ばく検査をしたのはマグロだけで、船員は健康診断さえ受けられず、補償もないことが明らかとなっています。

 ビキニ水爆実験被災について、アメリカはその実態を隠し、日本政府も調査をあいまいにしてきました。それだけに、その全容解明と補償の責任は今日もきびしく問われなければなりません。

 当時、水爆実験の周辺海域で漁獲されたマグロから放射能が検出されたため、日本国内では魚の廃棄や買い控えなど社会不安がひろがり、それを契機に原水爆反対の署名がはじまりました。

 運動は地域ぐるみ、住民ぐるみで発展し、署名者は有権者の半数にあたる3200万人に達しました。これが翌年の第1回原水爆禁止世界大会につながる、原水爆禁止運動の原点となったのです。

久保山さんの願い受け

 15日に発表された「核兵器全面禁止のアピール」国際署名運動は、国連事務総長をはじめ、内外の広い賛同を得て提起され、大きな注目を集めています。ことしのビキニデー集会は、この運動を飛躍させる場とも位置づけられています。

 第五福竜丸で被災し亡くなった久保山愛吉さんは「原水爆の被害者はわたしを最後に」とうったえました。この願いを受け止め、原水爆禁止運動の原点にたった国民的な運動を発展させていくことが期待されています。





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