2010年3月29日(月)「しんぶん赤旗」

列島だより

昔ここは米軍基地だった


 敗戦から65年。米軍は、沖縄、神奈川、東京などいまだに各地に駐留しています。鳩山内閣と民主、社民、国民新が、米軍基地を新たに沖縄県内と、九州などにつくろうと狙っていることに、各地で反対のたたかいがまきおこっています。米軍基地を撤去させればどれだけ新しい発展の可能性が開かれるか…。首都圏と沖縄からのリポートです。


住民運動 今は憩いの場

千葉・柏市 柏の葉公園

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 千葉県立柏の葉公園(柏市)は満開のカンヒザクラを楽しむ人や家族連れでにぎわいます。広場や総合競技場、ボートの楽しめる池、建設中の野球場などもあります。

 「えっ、ここが米軍基地だったんですか。知らなかった」。友人と2人で遊びにきていた柏市の女性(31)はいいます。「こんなに広くて、四季が楽しめる公園はほかにないのでよく来ていたんですけど。基地はいらないですよね」

 30年前まで広大な米軍基地「柏通信所」(約188ヘクタール)でした。基地全面返還後、「柏の葉」と名付けられ、住宅や国立がんセンター東病院、学校も建設され、くらしや教育、文化、スポーツの拠点となっています。

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 跡地の中心部の45ヘクタールは公園として整備され、公園中央口の横に建てられた土地区画整理事業の完成記念碑(1990年11月)が基地だったことをしのばせます。「県民の基地返還に対する熱意が伝わり、昭和54年(1979年)8月14日全面返還されました」と。

 77年に返還(95ヘクタール)を始め、米軍は引き換えに未返還地に「ロランC」局建設を計画しました。

 ロランCは米国防総省が、原子力潜水艦に核攻撃命令を伝える航法支援システムです。

 この計画に対し、柏市議会が調査特別委員会を設置したのをはじめ、日本共産党、社会党、柏地区労働組合協議会がよびかけ市内13団体が参加した「米軍基地をなくす柏実行委員会」を結成し、反対運動が広がりました。

 78年2月には、日本共産党の不破哲三書記局長(当時)が衆院予算委員会でとりあげ、核攻撃の第1目標の危険な施設を、人口密集地へ建設するのは世界でも例がないと追及。この質問は地元にも衝撃をあたえました。

 当時の市長も国に中止を申し入れるなど、市、市議会、市民挙げての運動が大きく広がり、米軍は建設を断念し柏通信所は全面返還されました。

 基地建設の反対運動に参加した地元の男性(71)は「住民の運動が、計画を具体化させない大きな力になりました。平和のための施設、学術・文化の拠点となったことがうれしい」と振り返ります。

 首都圏では、米軍基地が返還される一方で、原子力空母が配備された横須賀(神奈川)、艦載機が低空飛行訓練の拠点に使っている厚木(同)、戦争司令部として機能強化されている座間(同)、横田(東京)など米軍基地が居座っています。

 2歳の娘を連れ公園に遊びに来た東京都内の男性(30)は「近くに住む祖母から、ここが基地だったとは聞いて知っていました。戦争ではなく平和のために使ってほしい」と話していました。(佐藤つよし)


人口15倍 経済効果16倍

沖縄・那覇市 那覇新都心

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 「那覇新都心」―沖縄県那覇市の北部に位置し、北は浦添市に隣接、西に泊港を望む一帯です。首里王朝時代は直轄地。県民を巻き込む凄惨(せいさん)な地上戦となった沖縄戦で、米軍が「シュガーローフの戦闘」と呼ぶ最大の激戦地もあります。

 ここ那覇市天久(あめく)は、かつては「牧港住宅地区」と呼ばれていました。地元住民を金網で仕切り、浦添市の海兵隊・牧港補給地区(キャンプ・キンザー)の軍人・家族用に芝生が広がる住宅とプール、ゴルフ場、スケート場などが並んでいました。

 ここで基地のない“街づくり”が始まって20年近い間に、人口は15倍の約1万5000人に。広さ214ヘクタールの同地区は半分が住宅(55・1%、課税面積)。県立博物館新館・美術館などの文化・行政施設や「原宿みたい」といわせた巨大店舗・業務ビルが立ち並び、平日でも車や人の波が絶えません。

 県基地対策課の委託調査によると、軍用地代や各種交付金など返還前「基地経済」が生み出した「経済波及効果」は、総額77・8億円(年額)と推計されています。

 これにたいして、返還後の“街づくり”による「経済波及効果」は、1238・2億円(2001、02年度数値による)、約16倍です。2013年には、「(02年時の)3倍程度にまで拡大」と見込まれています。

 ここまでくるのに住民の苦労は並大抵ではありませんでした。戦後、捕虜収容所からもどされた住民を待っていたのは、米軍による無法な土地強奪でした。1953年に米軍・米国民政府が公布した「土地収用令」の適用第1号地となり、立ち退きを拒否する住民を、米軍は「銃剣とブルドーザー」で追い立て、収穫目前の畑や先祖伝来の墓を押しつぶしました。

 「施政権」返還(1972年)後も、全面返還には12年かかりました。

 「返還は移設条件付きでした。“思いやり予算”で高級マンションなどを建てる。米軍は移設先ができて、ようやく返す。長い時間がかかりました」。米軍の土地取り上げに命がけで抵抗した沖縄人民党(73年、日本共産党に合流)で、幹部として基地問題に取り組んだ高江洲義一さん(72)が指摘します。

 ただでさえ、戦争で土地の権利関係は複雑でした。基盤整備もされず建築確認はおりない。土地収入がなくても固定資産税はかかる…。「住民も行政も苦労しましたが、今のにぎわいを見て、あのころの努力は正しかったとうれしく思います」。当時、日本共産党那覇市議団長だった当真嗣州さん(73)の感慨です。「自民党と米軍は、革新市政が区画整理・街づくりができないよう、虫食いのコマ切れ状態で返還してきました。党市議団は、行政を励まし、地主ら住民の合意形成を大切にしながら、論戦を通して“街づくり”の豊かな可能性を明らかにしたものです」(青野圭)





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