2007年11月15日(木)「しんぶん赤旗」

戦争反対の人民戦線めざし獄死した和田四三四とは?


 〈問い〉 戦前、国家総動員体制で侵略戦争に突入していったとき、大阪でこれに抵抗して、日本共産党再建と人民戦線運動の推進にあたったという和田四三四とはどんな人ですか?(福岡・一読者)

 〈答え〉 戦前、日本が無謀な太平洋戦争に突入していく時代、弾圧で日本共産党中央委員会が壊滅した(35年春)後も、命を賭して反戦平和のためにたたかった人たちがいました。1942年8月13日、32歳の若さで獄死した和田四三四(わだ・しさし)もその一人です。

 和田は、伊予松山藩主だった松平家の一族で、父の松平定安、母マツの6男として、1910(明治43)年に松山市で生まれ、のちに道後湯之町の和田家の養子となり、松山中学(現松山東高)をへて、31年3月、松山高商(現松山大)を卒業します。松山高商時代は、寡黙で目立たず一人コツコツと『中央公論』や『改造』などを読み、山岳部に入っていたといいます。

 卒業後しばらく同大学図書館に勤めた後、32年に大阪に出て、1年ほど、港区の法律事務所で労働運動を研究、その後、全労大阪金属港南支部連合会の書記となり、港南消費組合結成に尽力します。

 反ファシズム人民戦線運動が広がり、34年3月にはジュネーブで全世界の労働者代表会議がひらかれます。四三四の実兄は、「この会議に弟は、日本の労働者代表として出席する予定だった。それで弟を激励したが、2月下旬、事情ができ、代わりが行くことになったと。理由は、もし一カ月大阪を不在にすると、港南消費組合が弾圧で壊滅するおそれがある。自分は大阪を死守するということだった」と、感銘した思い出として語っています。

 34年、和田は日本共産党へ入党、同年9月1日の室戸台風で大正区、港区に大被害がでると昼夜をわかたず救援活動を行いました。35年3月〜36年5月、大原社会問題研究所大阪支所の嘱託となります。和田はここで働きながら、36年3月、奥村秀松、宮木喜久雄らとともに党関西地方委員会を再建し『統一戦線樹立のために』など各種パンフレットを発行、ついで7月には党中央再建準備委員会をつくり、共産主義者の結集と人民戦線運動の推進にあたりました。しかし、同年12月、9府県約240人の検挙という弾圧をうけ、和田、奥村は獄死、日本における人民戦線運動は中絶しました。

 『人民戦線史序説』の著者、岩村登志夫氏の「(和田は)常に世界的視野に立って行動していたがそれができたのはなぜ?」との問いかけに、実兄は「大原社研で東京からしばしば訪れた大内兵衛、森戸辰男らと交流、とくに所長の高野岩三郎氏とは親しかった。当時のトップレベルの自由主義者、マルクス経済学者らと交流をたもっていたこと。また、先祖から父親に至るまで自由主義、人道主義的精神が流れており、それが彼の血肉となって思想として受け継がれてきた」と語っています。(喜)

 〈参考〉青木書店『日本社会運動人物辞典』、犬丸義一・中村新太郎著『物語・日本労働運動史』(新日本選書)、松山大学温山会報第33号、仙波恒徳「異端の先輩、和田四三四」

 〔2007・11・15(木)〕


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