日本共産党

2002年11月14日(木)「しんぶん赤旗」

21世紀の資本主義と社会主義

――ふたたび「科学の目」を語る

第38回赤旗まつり 不破議長の講演〈下〉

不破議長の講演〈上〉


三、社会主義の前途を考える

(一)中国の国づくりの方針について

中国を訪問して

 社会主義の問題に進みましょう。世界の社会主義の問題を研究するとき、私たちは、机の上だけで、ものを考えるわけにはゆきません。私は、「科学の目」の大先輩であるマルクスが、社会主義、共産主義についてどこまで語っているかを、あらためて調べなおすことを、自分の研究の課題の一つとしていますが、こういう理論的な遺産の研究と同時に、現在、社会主義をめざすとしている国ぐにが、実際にどういう状況にあり、どこからどこへ進もうとしているか、この現実をよく見ることが大事だと思います。

 私は、この八月に中国を訪問してきました。党関係を正常化した直後、一九九八年七月の訪問から四年ぶりの訪問でした。

 八月二十六日から三十日まで、期間的には五日間の短い訪問でしたが、内容的にはたいへん有意義なものでした。その中身をみなさんにお伝えしたいと思い、「北京の五日間」と題して「しんぶん赤旗」に連載を始めたのですが、五日間の訪問のあらましを報告するのに、四十四回の連載となりました。この連載は、いわゆる報告的な文章では、私が中国で話し合ってきたこと、見てきたこと、また感じとってきたことを、実のある形で十分伝えられないという思いから始めたものでした。そのために、ノンフィクションといいますか、ドキュメントといいますか、そういう形式で書くという新しい試みに挑戦してみたのです。今回の訪問での私が得た収穫のあれこれは、そのなかでかなり紹介ずみですが、今日は、中国が経済社会としていまどういう現状にあり、どういう道筋で社会主義をめざそうとしているか、そこにどんな未来がありうるのか、そういう角度からの話を、社会主義論のいとぐちにしたいと思います。

中国は「社会主義市場経済」の方針をとっている

 中国は、人口十三億の大きな国で、いま、経済的には躍進の過程にあるということで、各方面から注目を集めています。

 こんど、中国を訪問する前、いろいろ読んでいましたら、『世界週報』という雑誌に、ある財閥系の研究所の中国経済センターの方が、中国経済の現状を分析しながら、次のような予測をしているのが、目に入りました。

 「〔中国では〕向こう二〇年間、年平均六〜七%の成長率を維持することは十分に可能であろう。一般的な見方だが、二〇二〇〜二五年に、中国は経済規模で日本を追い越し、世界第二位の経済大国になる可能性が高い」。

 この見通しが実現すると、中国をめぐるアジアと世界の情勢にもたいへん大きな変化が起こることになります。中国の人口は日本のほぼ十倍ですから、経済規模(国民総生産など)で日本に追いついたとしても、国民一人当たりでは、日本の十分の一という勘定になります。経済発展の水準としては、まだ高い段階に達したとはいえません。しかし、経済の規模が日本に追いついたり、追い越したりしたとすれば、それによって、アジアと世界のなかでの中国の地位が大きく変わることは、間違いないことでしょう。

 では、中国は、経済的な国づくりについて、どういう方針をもっているのかというと、私は、たいへん落ちついた展望の立て方をしているところに、一つの特徴があると見ています。

 五〇年代から七〇年代にかけての毛沢東時代には、「大躍進」とか「人民公社」運動とかいって、社会の発展を急ぐ――未来社会でも高い段階だとされる共産主義の段階に、いまにも駆け上がるんだといった、いわば“急ぎ過ぎ”の傾向が、強くありました。

 しかし、いまは違っています。中国の方針では、現在は、社会主義の「初級段階」の建設が課題だとされています。これは、十五年前、一九八七年の党大会で決めた方針で、説明によると、この「初級段階」を卒業するのに、ほぼ百年かかる見通しだというのです。百年という長い視野で計画を立てているのですから、これはなかなかなものです。経済の発展水準としては、百年間の「初級段階」の中間点――五十年たったところで、世界の中進国の水準に到達することを、中間目標にしています。こういう目標の立て方を見ても、着実で落ちついた前進の方針をもっている、と思います。

 経済発展をどういう道筋で進めるのか。この問題については、十年前、一九九二年の党大会で、「社会主義市場経済」、言い換えれば、「市場経済を通じて社会主義へ」という方針が立てられています。

 この問題では、お隣のベトナムでも、一九八六年の党大会で、「ドイモイ(刷新)」という方針を決めました。「ドイモイ(刷新)」とは、「市場経済を通じて社会主義へ」という道のベトナム的な表現だといってよいでしょう。

 中国やベトナムが、こうして経済発展の道筋に「市場経済」をとりいれはじめたとき、社会主義を捨てて資本主義の道に移ったんだといった論評をする人たちが、日本でも世界でもずいぶんいたものでした。私は、これは、たいへん早のみこみの評価だった、と思います。そして、その大もとには、市場経済といえば、即資本主義だとする思い込みがありました。

 中国やベトナムの取り組みは、そういう思い込みにはとらわれないで、社会主義への道として、どういう意義をもちうるか、という角度から、よく研究する必要がある問題だと思います。

(二)レーニンの市場経済論とそれ以後

レーニンも最初は市場経済を否定した

 社会主義と市場経済というのは、たいへん現代的な問題ですが、この問題を研究するには、実は、レーニン時代のソ連の経験がたいへん参考になります。

 私は、「マルクスと『資本論』」を書く前に、同じ雑誌『経済』に、「レーニンと『資本論』」という研究を連載したのですが、そのなかで、社会主義と市場経済の問題をめぐって、レーニンがどんな苦闘をしたかについて、ずいぶん突っ込んだ研究をやりました。

 こんどの中国訪問のなかで、中国の社会科学院という総合的な研究機関から、学術講演というものを求められました。市場経済の問題について聞きたいという声があることも聞いていましたので、講演のテーマは「レーニンと市場経済」にしました。その内容は、すでに「しんぶん赤旗」に発表しましたので(九月四日付)、興味のある方は見ていただきたい、と思います。

 いま世界の社会主義の流れを考えるとき、この問題でのレーニン時代の経験は、本当に振り返る値打ちがあります。

 レーニンは、天才的な革命家であり社会主義者でしたが、やはり、何でも、初めからすべて分かっている、というわけにはゆかないのです。とくに社会主義の国づくりの問題では、経済面でもたいへんジグザグの道をたどりました。

 一九一七年の十月に、ソビエト政権を打ち立てたとき、レーニンが社会主義の経済の目標としたのは、国が生産をにぎり、生産した物資を国民に分配する、という体制でした。どうして、こういう体制が目標になったかというと、実は、そのモデルは、第一次世界大戦のなかでドイツがとった戦時経済の体制にあったのです。

 ドイツは、大戦中、戦争の必要にこたえるために、国家中心の戦時経済の体制を他国に先がけてつくりあげました。レーニンは、亡命中のスイスでその様子を見て、資本家が自分たちの都合のために、全国的な規模で経済の計画的な運営ができるのなら、同じことを、社会主義の政権が、労働者と人民のためにできないはずはないじゃないか、ここには、社会主義がさしせまっており、しかも現実的であることの新しい証明がある、と論じたものでした。

 このことが深く頭に印象づけられていたのでしょう。レーニンは、十月革命のあとの経済体制づくりのときに、ドイツの戦時経済を事実上のモデルにして、国家が生産をにぎり、物資の国民への分配を組織するという方針の具体化にのりだしました。やがて、外国の干渉軍や国内の反革命軍との戦争が始まり、経済状況が悪化するなかで、この方針はいよいよ極端化することになり、農民が生産する農産物までも、国家が徴集して分配するという体系のなかに強引に組み込まれることになりました。これが、のちに「戦時共産主義」と呼ばれた体制でした。

 この体制のもとでは、生産者が物を自由に売り買いする市場経済というのは、社会主義の体制づくりを妨害する邪魔物でしかありません。レーニンは、この時期には、市場経済は、体制づくりの敵だと言わんばかりの文章を、大いに書いたものでした。小生産者や市場経済を放任すると、そこから資本主義が復活する、こういう警戒心ばかりを先に立てた見方も、この時期の市場経済否定論の大きな特徴でした。

「市場経済を通じて」の方針への大転換

 この「戦時共産主義」というのは、本当に強引で無理な体制で、干渉軍との戦争が続いていたあいだは、国民もかなりがまんしていましたが、やがて、干渉戦争が打ち破られ、戦争から平和への情勢の転換が起こってくると、農民を中心に、この体制ではがまんできない、という声が、全国でふき上がってきます。

 この新しい情勢にどう対応するか、この問題に取り組んだレーニンは、考えに考えをかさねたあげく、ついに、この情勢を前向きに打開するためには、市場経済にたいする態度を根本から転換させて、市場経済を復活させる必要があるという方針に踏み切るのです。レーニンが、この大転換を最終的に決断し、その実行に踏み切ったのは、一九二一年十月のことでした。

 しかし、その転換をうけた党の会議は、なかなかたいへんだったようです。それまで、市場経済はいかに悪いものか、という方針で全党がやってきたわけですから、レーニンが新しい方針を打ち出しても、すぐ“分かった”ということにならないのです。反対論が次々と出てきます。「われわれは、牢獄(ろうごく)で商業のやり方など習いはしなかった」とか、「共産主義者に商売をやらせようというのか」とか、こんな意見がどんどん出てくる。それをレーニンが、ことを分け、道理を説いて説得してゆく、こんな記録も、レーニン全集には収められています。

 新しい方向を見定めると、レーニンは、ただ市場経済を受け身で認めるという消極的な姿勢ではなく、この転換を、市場経済のもとで社会主義への前進をかちとってゆく積極的な政策に発展させてゆきます。こうしてまとめあげられたのが、「新経済政策」と呼ばれることになった政策体系で、一言でいえば、市場経済の舞台で資本主義とも競争しながら、市場経済に強い社会主義――資本主義に負けない社会主義をつくってゆこう、という構想でした。

 当時、レーニンが打ち出した分析や方針のなかには、いま、「市場経済を通じて社会主義へ」という問題を考える場合に、参考にできる豊かな内容が含まれています。

スターリンは、レーニンが敷いた道をぶちこわした

 このとき、レーニンがたてた構想がそのまま実行されていたら、おそらくその後のソ連の歩みは、ずいぶん姿の違ったものとなっていたでしょう。

 しかし、歴史は、レーニンにそういう活動を許しませんでした。レーニンは、市場経済への転換方針を打ち出してからまだ一年数カ月しかたたない一九二三年三月に、重い病気にたおれ、一切の政治活動ができなくなります。そして、翌一九二四年にレーニンが死んだあと、ソ連の党の指導者となったのがスターリンでした。

 スターリンは、レーニンが国づくりの大方針とした「新経済政策」を五年ほどで打ち切ってしまいます。そして、農民を、上からの命令で強制的に集団農場に追い込むという暴挙をソ連の全土で強行します(一九二九〜三〇年)。これに反対した農民は、片端からシベリアなどに送られました。この時、数百万の犠牲者が出たことを、スターリン自身が認めていますが、この「農業集団化」は、それに続く時期におこなわれた対外政策の面での領土拡張政策への転換(ヒトラーとの秘密協定にもとづくポーランドやバルト三国の併合、一九三九年)とあわせて、ソ連が、社会主義への道からはずれて、人間抑圧型の社会に変質してゆく重大な画期となりました。

 こうして、レーニンが切り開いた「市場経済を通じて社会主義へ」という新しい道は、スターリンによってわずか数年で断ち切られてしまい、ソ連がこの道に立ちもどることは、二度となかったのです。

市場経済のモノサシを失ったら

 変質への道を進んだソ連で生まれた経済体制は、人民抑圧型であると同時に、市場経済を否定したことで、経済の体制としても、たいへん不出来な体制にならざるをえませんでした。

 マルクスが『資本論』で分析しているように、市場経済というものは、いろいろな効用をもっています。たとえば、人間の労働には、複雑労働と単純労働などの違いがいろいろありますが、それらは、市場経済の作用で、おのずから分に応じた評価がされるようになってきます。市場経済はさらに、労働だけでなく、企業の経済活動などの評価のモノサシとしても、大きな働きをします。いまの日本だったら、モノを生産しても、出来の悪いもの、使いにくいもの、コストがかかり過ぎるものは、市場でうまく売ることはできません。市場での点検ということが、その経済活動が成功しているかいないかのいちばんのモノサシになるのです。

 ところが、スターリン以後、市場経済を事実上否定してしまったソ連経済は、経済活動を評価するこのモノサシを失ってしまいました。では、その代わりに何をモノサシにしたかというと、いちばん広く使われたモノサシが、製品の重さや使った材料の重さだというのです。そうなると、何をつくる場合でも、重いものをつくればつくるほど、成績が上がることになります。こんな不合理な経済体制はないでしょう。

 これは、私が勝手に悪口を言っているのではありません。スターリンのあと、ソ連の指導者になったフルシチョフが、党の中央委員会総会で、“重さ第一主義”の不合理さを怒って、何回も演説や報告をしているのです。

 ――なぜソ連ではシャンデリアというと重いものばかりつくるのか。重いシャンデリアを使いたい人はいないはずだが、重くつくればつくるほど成績が上がるから、みんな重いものをつくる。

 なぜ機械に重い鉄の土台をつけるのか。土台を重くすると、鉄の消費量がそれだけ増えて、報奨金がよけいもらえるからだ。

 こんなでたらめな仕掛けは誰がつくったんだ、もっと合理的なものに変えなければいけない。

 フルシチョフはこんな調子で怒るのですが、市場経済にかわる合理的なモノサシがそんな簡単にみつかるわけはないのです。

 実は、私たちは、“重さ第一主義”のソ連型経済による被害を、ベトナムで目撃したことがあります。七〇年代の後半、アメリカの侵略戦争に打ち勝って、ベトナムが平和を回復したとき、経済建設の援助に経済調査団をベトナムに派遣しました。調査団が農場に行ったら、ソ連から贈られてきた田植え機を使う現場に出くわしたそうです。ベトナムの人たちが大事に扱っているのですが、なにしろ重さが成績の基準というソ連でつくられた田植え機ですから、田んぼにもっていくと、ずぶずぶ沈むというのです(笑い)。それでもせっかくの贈り物だからというので、ベトナム側で田植え機の両側にボートをつけた。その助けで浮くことは浮いたんだが、今度はそのボートが、植えた苗を次々となぎ倒してゆく(笑い)、結局、使い物にはなりませんでした。

 七〇年代の後半といえば、スターリンが「新経済政策」と市場経済をやめてしまって四十年から五十年ぐらいたった時期のはずですし、フルシチョフが怒ってからでも二十年近くたったころですが、依然として“重さ第一主義”の経済体制が続いていて、その被害をベトナムにも及ぼしたということのようでした。

 実は、この話は、中国の学術講演でも紹介しました。笑いは全世界共通で、みなさんと同じように、中国でも大いに笑っていただきました。

 これが、レーニンの「新経済政策」を否定したあと、ソ連経済がゆきついた結末の一つです。

(三)中国で見たこと、話したこと

中国の取り組みの変遷には、レーニン時代の歴史と重なり合う点がある

 レーニンが市場経済に取り組んだ歴史を、革命に勝利して以後の中国の動きと重ねあわせて考えてみますと、なかなか面白い共通点が見えてきます。現在の中国は、革命後四十年あまりにわたって、いろいろな紆余(うよ)曲折を経て、経済建設への取り組みとしては、ちょうど、レーニンが「新経済政策」を提起した当時と、よく似た段階にさしかかっているといえるでしょう。

 毛沢東時代、とくに六〇年代の「文化大革命」前後の時代は、ある意味でいうと、「戦時共産主義」的なところがあります。

 さきほどちょっと触れましたが、レーニンは、「戦時共産主義」の時代には、小生産者は資本主義の温床になる、市場経済を認めたら、資本主義がどんどん復活する、といった議論をしきりにとなえたものでした。「新経済政策」に移るためには、こういう議論と手を切ることが必要となりました。

 中国でも、六〇年代には、毛沢東を先頭に同じ議論がさかんに持ち込まれました。“小生産者は自然発生的な資本主義の傾向をもっており、機会があると、資本主義の道に走ろうとする”。ここから、「資本主義の道を歩む実権派」が必ず生まれてくるし、これとの階級闘争が、革命の中心任務だ、という方針が引き出されたのです。この階級敵――「資本主義の道を歩む実権派」は、最初は、農村にいるとされていたのですが、やがて「中国共産党の中にいる」ということになり、それが、紅衛兵を動員しての幹部打倒闘争に発展したのが、例の「文化大革命」でした。

 今日の「社会主義初級段階」とか、「社会主義市場経済」という方針は、こういう歴史を清算して、国づくりの新しい方向を打ち出したもので、そういう意味では、その発展のなかには、レーニンが「戦時共産主義」から「新経済政策」に転換したのと、共通する問題意識が流れているとみてもよいでしょう。

現代の挑戦には、新しい条件もあれば新しい困難もある

 もちろん、時代的な違いも反映して、同じ市場経済への取り組みでも、レーニン時代のそれと現在の中国のそれとのあいだには、大きく違っている点が多々あります。

 たとえば、外国資本主義との関係などは、いちばん大きく違っている点の一つかもしれません。

 レーニンは、「新経済政策」を構想したとき、外国資本主義の参加を大いに歓迎する態度をとりました。いろいろな「利権」を外国資本に提供して、技術援助や開発援助を得ることを考えたのです。そして、入ってくる外国資本から「企業のやり方」を学びとることも、「利権」政策の大きなねらいの一つでした。

 しかし、レーニンの時代には、いくらソビエト政権が歓迎の態度を示しても、ロシアに入ってこようという外国資本は、ほとんどありませんでした。アメリカの経済界の代表と称して乗り込んできたヴァンダーリップというアメリカ人がいて、レーニンは直接交渉にあたったりしましたが、この人物は、実際には、なんの権限もない一鉱山技師にすぎませんでした。

 しかし、いまの中国やベトナムは、まったく状況が違って、ヨーロッパやアメリカからも、日本からも、それこそ巨大な資本主義がどんどん入ってきています。そういう巨大資本主義を相手にして、それにのみこまれることなく、そこから必要なものを学ぶと同時に競争もしながら、市場経済で資本主義に負けない社会主義をつくる、これは、たいへんな大事業であり、新しい困難への挑戦だと思います。

 こういう新しい困難にも直面しながら、これまで誰も歩き通したことのない道――「市場経済を通じて社会主義へ」という道に、いま中国やベトナムが挑戦し、その道を歩き通そうとしているわけです。私たちは、同じアジアで社会進歩の事業に取り組むものとして、その挑戦の一歩一歩をよく見ること、そしてよく研究することを重視したい、と考えています。

中国で見た、新し形態の企業集団

 この点で、私がとくに関心をもったのは、この取り組みのなかで、どうやって、資本主義にのみこまれないで、社会主義への方向性を堅持してゆくかという問題、とりわけ、市場経済に強く、資本主義に負けない社会主義の部門を、どうやってつくってゆくのか、現にどうつくろうとしているのか、という問題です。

 さきほども述べたように、私が最近の中国を訪問したのは、四年前、一九九八年のことでした。こんど訪問したら、「四年ぶりというのは、あいだが長すぎる」と多くの人から言われました。私はそのたびに、「第一回目の私の訪問(一九六六年)と第二回目のあいだは、三十二年あった。第二回目と第三回目のあいだは四年だから、八倍もスピードアップしたんだ」と答えることにしていました。

 そして、四年前の訪問とくらべて、非常に大きな違いを実感した問題の一つが、社会主義の部門がどうなっているか、というこの問題でした。

 四年前の訪問のとき、工業施設として案内されたのは、一つの石油化学コンビナートでした。旧来型というか、以前から活動していた国有企業で、こんどは市場経済という新しい条件のなかで仕事をしなければならなくなり、労働者の余剰人員をどうするかなど、経営にたいへん苦労しているという話を聞きました。

 こんどの訪問では、同じ公的な部門でも、まったく新しい形態のものが生まれて、市場経済のなかで、実に活き活きと活動しているところを見ました。

 北京の一角の中関村(ちゅうかんそん)に、一万をこえるハイテク企業や研究機関が集中する「サイエンスパーク(科技園区)」が生まれたのです。中国のシリコンバレーなどと呼ばれているようですが、そこでは、新しい企業がどんどん生まれています。外国に留学して帰ってきた研究者や技術者が、自分で起こしているベンチャー企業もたくさんあります。これらは、もちろん、私的な企業です。

 この地区には、公的な企業もありますが、その形態が独特なんです。たとえば、中国科学院という政府のお役所がつくった企業がある。「連想」という企業集団で、科学院で働いている科学者や技術者が中心になって設立した公有企業です。また北京大学がつくった「北大方正」、清華大学がつくった「清華同方」など、新しい型の公有企業の集団が立ち並んで、ハイテク最前線の仕事をしているわけです。それぞれ急成長をとげて、「連想集団」などは、海外にも進出して、世界で何番目と指折り数えられるような巨大なコンピューター企業になっています。

 企業の形態の中身まで詳しく見てくる時間的な余裕はなかったのですが、市場経済をふまえての躍進の息吹を実感させる新しい発展が、たいへん印象的でした。

学術講演で話したこと

 こういう発展のさなかにある中国で、さきほど言いましたように、求められて市場経済についての学術講演をしたのでした。

 だいたい「社会主義市場経済」づくりの仕事は、中国の人たちが取り組んでいることです。私は、その当事者ではないし、この分野での中国の活動の実際についても、つっこんだ知識はありません。中関村で新しい息吹にふれたと言いましたが、実は講演をしたのは訪問二日目の八月二十七日、中関村の視察はその翌日でしたから、その実情も直接的にはまだ知らない段階での講演でした。

 その私が、中国のみなさんの前で、社会主義と市場経済についてものをいう資格がどこにあるか、ということを考えてみると、一つは、中国がいま取り組んでいることの、いわば大先輩であるレーニンの市場経済論について、まとまった研究をしてきたということ。もう一つは、「社会主義市場経済」の経験はないが、「資本主義市場経済」のことはたいへんよく知っているということ(笑い)。なにしろ、生まれたときから、そのなかで生きているわけで、資本主義市場経済のいいところ、悪いところ、とくに悪いところは、いちばんよく知っていますから(笑い)。そういう立場からなら、多少は中国のみなさんにも参考になることが言えるかもしれないと思って、講演を準備しました。

 講演では、いろいろな角度から問題をとりあげましたが、その一つに、「市場経済の道が社会主義に到達する道として成功するためには、なにが必要か」という問題がありました。市場経済には、二つの発展方向があります。これまでの歴史では、これは、資本主義発展への道筋となりました。しかし、別の条件のもとでは、社会主義への発展の道筋になりうる。これが、今日の新しい挑戦ですが、その成功のためには、成功するだけの条件をととのえることが必要です。その問題について、レーニンが強調した教訓を、三つの点にまとめて話したのです。

 第一にとりあげたのは、社会主義部門が、市場での競争を通じて、資本主義に負けない力をもつようになること、その立場で、内外の資本主義から学べるものはすべて学びつくす、ということです。この問題では、レーニンが打ち出した面白いスローガンがあります。これも紹介しました。

 一つは、「ヨーロッパ的に商売のできる一流の商人になろう」です。ただ市場経済に参加して、売り買いをしているというだけではだめだ。経験を積んだヨーロッパの商人たちに負けない一流の商人になろうじゃないか、これがレーニンのスローガンでした。

 もう一つは、「国有企業などの社会主義部門を、資本主義企業との競争で点検しよう」です。「点検」というと、党には統制委員会――わが党でいえば、規律委員会です――の点検がある、政府には労農監督部の点検があるが、そういう点検ではない、市場で活動の出来・不出来を点検する、その市場の点検に立派に合格するような社会主義をつくりだそう。レーニンは、そう呼びかけました。

 これが、レーニンが「新経済政策」を進めるさいに打ち出したスローガンです。私は、これは、現代にも立派に通用すると思っています。

 二番目に話したのは、「瞰制高地(かんせいこうち)」が大事だというレーニンの提起でした。「瞰制高地」というのは、当時の軍事用語で、いまの日本ではまったくなじみのない言葉です。以前の、大砲を撃ち合う戦争をやっていた時代には、戦場の全体を見渡せるような高地をさきに占領することが、勝敗を決する大問題でした。そういう高地、「瞰制高地」をおさえれば、戦場の全局を視野におさめて、戦争の主導権をにぎれるからです。

 そういうことから、「瞰制高地」という言葉が、一般的な用語としても使われるようになり、レーニンが「新経済政策」を論じるときにも、社会主義への方向性を確保する問題を、この用語を使って説明したのです。

 市場経済のなかで社会主義への方向性を見失わないためには、経済の全体に影響をあたえるような「瞰制高地」を、社会主義の側にしっかりにぎりつづけることが大事だ――これが、レーニンの「瞰制高地」論でした。

 では、経済のなかで、何がにぎるべき「瞰制高地」なのか。レーニンは、当時、「工業と運輸の分野の生産手段の圧倒的な部分」を社会主義国家がにぎっているということを、「瞰制高地」確保の主な内容としてあげました。これは、時代が違い、条件が違えば、おのずから変わってくる問題です。

 三番目にとりあげたのは、市場経済が生み出す否定的な現象から社会と経済をまもる、という問題です。市場経済の否定面というのは、私たちが日本でさんざん経験していることです。

 市場経済は、もともと無政府性や弱肉強食的な競争性をもっています。そこから、リストラや失業、社会的な経済格差といった問題が生まれてきます。

 また金がすべてという拝金主義やいろいろな腐敗現象も、市場経済にはつきものです。

 市場経済のもとで、経済をうまく発展させるためには、社会保障制度を充実・発展させることをはじめ、こういう否定面をおさえる規制のしくみ、社会的な歯止め装置が、どうしても必要になります。

 資本主義の市場経済でも、長い歴史を通じて、いろいろな歯止め装置がかちとられてきているでしょう。マルクスが『資本論』で評価した労働時間短縮の工場立法などは、資本主義社会のなかに労働者の闘争が生み出した最初の歯止め装置です。ここから始まって、資本主義市場経済は、社会保障制度など、いろいろな分野で社会的規制のしくみがつくられてきた長い歴史をもっています。

 しかし、現在の中国やベトナムは、市場経済を復活させたばかりで、社会的な歯止め装置が十分にできあがっていないまま、市場経済の道に進んでいる、という状況があります。それだけに、この分野での努力がとりわけ大事になっています。

 私は、いま世界の資本主義体制のなかでも、市場経済万能主義か、それとも社会的規制を確立した市場経済かという問題が大きな争点となっていることも紹介して、市場経済を通じて社会主義をめざす国が、その分野でも優位性を発揮することを探究してほしい、と要望してきました。

市場経済と社会主義――日本の未来にもかかわる問題

 この学術講演をふくめ、市場経済の問題についての交流をある程度してきましたが、この問題は、私たちにとって、決して他人事ではないのです。日本の将来にとっても、たいへん大事な意味をもつことです。

 私たちは、将来の日本が社会主義への道に進む場合、市場経済との関連はどうなるのか、といった質問をよくうけます。この問題での私たちの見解ははっきりしていて、七〇年代から「自由と民主主義の宣言」(一九七六年の党大会で採択)で答えを出してきましたし、現在の綱領では、「計画経済と市場経済の結合」という方針を明記しています。これは、日本が社会主義に向かうときには、「市場経済を通じて社会主義へ」という道を進む、ということです。

 日本では、その前に、経済の民主的な改革がどうしても必要です。これも、もちろん市場経済のなかで、国民の生活と権利をまもるルールづくり、民主的規制を中心にした改革を進めて、新しいものを生み出してゆかなければなりません。

 そして、将来、さらに進んで、国民が社会主義に前進する道を選択するようになったときには、どういう道を進むのかといえば、当然、「市場経済を通じて社会主義へ」という道になると思います。

 ごく大まかな予想ですが、その発展の第一歩は、市場経済のなかで、社会主義的な性格の新しい部門が生まれる、ということになるでしょう。そして、その部門が、資本主義にくらべて、これこれの点で合理性と優位性をもっている、そういうことを市場経済のなかで点検されながら、社会主義部門が国民経済のなかでの比重と力量を次第に大きくしてゆく、おそらくこういった過程をたどるでしょう。

 この過程の進み方やそれがとる形態には、その国なりの独自性、特殊性が豊かに生かされるでしょうが、「市場経済を通じて社会主義へ」という大筋では、私は、世界の多くの国ぐにが共通点をもつことになるのではないか、と考えています。

 その意味では、現在、中国やベトナムでおこなわれている新しい挑戦には、世界的な意味をもつ内容が含まれている、といえます。私たちは、お隣の国の国民として、また二十一世紀には未来社会をめざす展望をもつものとして、そういう切実感をもって、中国の今後の発展、ベトナムの今後の発展を見守りたい、と思っています。

(四)いくつかの理論問題について

 中国訪問でいろいろな見聞をしながら、私は、社会主義についてのいくつかの理論問題をもって、日本に帰ってきました。これは、以前から頭にあったことですが、こんど、中国を訪ねて、さらに触発された面がいろいろあったのです。

「生産手段の社会化」について

 一つは、社会主義の経済とはなにか、にかかわる問題です。

 社会主義の経済の特徴はなにか。私たちの党綱領にも、まず「生産手段の社会化」と書いてあります。

 どういうことかというと、資本主義の経済では、工場や機械などの生産設備――経済学では「生産手段」といいます――、この生産手段を実際には労働者が集団で動かし、社会全体、国民全体を相手にした社会的な生産をしています。そういう意味では、生産手段はすでに社会的な性格をもつようになっているのだが、それを所有しているのは、社会ではなく、個々の資本であるために、社会全体の利益ではなく、個々の資本の利潤追求が工場を動かし経済を動かす第一の動機になる。これが、私たちが利潤第一主義と呼んでいるもので、資本主義社会のさまざまな矛盾は、そこから生まれるのです。

 この矛盾を解決するためには、労働者の集団が動かし、また社会的な規模での生産を現におこなっている工場や機械などの生産手段を、社会自身がにぎることが必要だ。こういう方向で社会の経済体制の合理的な発展をはかろうというのが、「生産手段の社会化」であり、そこに社会主義のいちばんの中身があるのです。

 では、生産手段を社会がにぎるとは、どういうことか。実は、ここにたいへん大きな問題がありました。

 ソ連では、「国有化」で国家が工場や機械を所有するようになれば、それが「生産手段の社会化」であり、それが社会主義の経済だとされてきました。

 では、生産手段を国有化しさえすれば、それで社会主義になるのか。私は、スターリン以後のソ連が、「社会主義」の看板をかけながら、社会主義とは似ても似つかない社会をつくってしまった根っこの一つには、そこのところの履(は)き違えがあったと思います。

 マルクスは、国有化で、生産手段を国家の手に移しさえすれば社会主義ができるといった、そんな単純なことは言いませんでした。

 マルクスは、『資本論』のなかで、社会主義、共産主義の社会について、多くのことを語っています。そして、社会主義、共産主義の社会では、生産手段を社会がにぎるということを繰り返し強調していますが、“社会主義とは、「国家」が生産手段をにぎることだ”という解説は、『資本論』のなかには、一言もありません。

 では、誰が生産手段をにぎるといっているのか、というと、「結合された生産者たち」です。さきほど、私は、資本主義のもとでも、機械制の大工業では、労働者は、個々ばらばらにではなく、集団として生産手段を動かす、と言いました。言い換えれば、「結合された生産者たち」が実際には工場を動かしているのです。この集団は、生産の主役なのに、経済の体制のなかでは、主役としての地位をあたえられていません。この体制を変えて、この集団――「結合された生産者たち」が、自分の手に生産手段をにぎり、本当の意味で生産の主役となる、マルクスは、こういう意味をこめて、社会主義を「生産手段の社会化」として特徴づけ、そこでは「結合された生産者たち」が主人公となることを強調したのでした。

 『資本論』の別の個所では、マルクスが、社会主義、共産主義の経済を、「結合的生産様式」という言葉で表現しているところもあります。「結合された生産者たち」が、生産手段をにぎる経済体制だから、「結合的生産様式」なのです。

 「生産手段の社会化」の具体的な形としては、国有化という形は、重要な役割を演じるでしょうが、その形態には多様なものが生まれてくるでしょう。また、歴史の今後の展開のなかでは、「生産手段の社会化」が、国有化とは別の形で実現される場合が起こってくることも、予想されることです。

 そして、どんな形をとろうと、それが社会主義の形態であるかどうかを見分ける最大の基準は、「結合された生産者たち」が主役・主人公になっているかどうかに、おかれるべきでしょう。これが、「生産手段の社会化」だ、「社会主義」だといって、官僚がすべてをにぎってしまい、肝心の生産者たちが抑圧された存在となっているような体制を、社会主義と呼ぶわけにはゆきません。

 このことを深く考えると、社会主義の本来的な特徴がつかまれてくると思います。

ソ連社会は、社会主義どころか、人間抑圧の社会だった

 スターリン以後のソ連では、たしかに工業の「国有化」もあれば、農業の「集団化」もありました。スターリンとその仲間、また後継者たちは、生産手段が「社会化」されている、だからこれが「社会主義」だと言いはりました。

 しかし、本当に生産者たちが主人公だったら、その社会が人間抑圧の社会であるはずはありません。一九九四年の党大会での綱領問題の報告のなかで詳しく述べたことですが、ソ連で、生産手段をにぎっていたのは、スターリンらの指導部とそれに直結する官僚たちでした。「生産者たち」はといえば、労働者は、普通の資本主義国でもごく普通の権利さえ保障されない、農民は、強制的に「集団農場」(コルホーズなど)に追い込まれて、国内の移動や旅行の自由さえもない、そのうえ、社会の全体が、支配者の気分次第でいつ強制収容所に送り込まれるか分からないという恐怖にしめつけられる、これが、ソ連社会の実態でした。人間を抑圧するそんな社会が、「結合された生産者たち」が主人公となる社会主義の社会であるはずはないのです。

 私は、この報告でのソ連社会の分析を、次の言葉でしめくくりました。

 「〔スターリン以後のソ連には〕たしかに形のうえでは、『国有化』もあれば『集団化』もありましたが、それは、生産手段を人民の手に移すことも、それに接近することも意味しないで、反対に、人民を経済の管理からしめだし、スターリンなどの指導部が経済の面でも全権限をにぎる専制主義、官僚主義の体制の経済的な土台となったのです」。「社会主義とは人間の解放を最大の理念とし、人民が主人公となる社会をめざす事業であります。人民が工業でも農業でも経済の管理からしめだされ、抑圧される存在となった社会、それを数百万という規模の囚人労働がささえている社会が、社会主義社会でないことはもちろん、それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえないことは、まったく明白ではありませんか」(不破「日本共産党綱領の一部改定についての報告」一九九四年七月、第二十回党大会)。

「生産手段の社会化」の多様な形態がためされる

 本当の意味で「生産手段の社会化」が実現されるときには、官僚がそれをにぎるのではないのです。実際に生産手段を動かす「結合された生産者たち」が、個々の工場でも、また全国的な規模でも、主人公となって経済を動かす、これが、マルクスが明らかにした社会主義の大方向でした。

 では、「結合された生産者たち」が主人公になる経済とは、具体的には、どういう経済になるのか、また企業はどんな形態になるのか。これは、あらかじめ青写真を描いて、現実をそれにあわせるというわけにはゆかない性質の問題です。

 マルクスは、「生産手段の社会化」という大方向は打ち出しました。また、そこで主役になるのは「結合された生産者たち」だという大方向も打ち出しました。しかし、それがどんな企業形態に具体化されるのか、全国的にはどんな経済形態になるのかについて、青写真を描くことは、きびしくいましめました。マルクスは、この問題は、将来、この問題に現実に取り組むことになる世代が、情勢の発展に応じて、自分たちの経験と知恵を結集して解決する仕事であって、あらかじめ青写真や指図書などを用意しておくべき問題ではない、そんな企ては、社会の発展の妨害物になるだけだということを、心得ていたのです。こういう問題でも、マルクスは、物事を深くとらえる「科学の目」の持ち主でした。

 私は、こういう問題意識をもって中国を訪問したのですが、さきほどお話しした中関村サイエンスパークでの見聞は、この問題意識からいっても、たいへん興味深いものでした。旧来型の国営工場とならんで、新しい型の公有企業――科学院、北京大学、清華大学などが設立し、研究者や技術者が主役を演じているらしい新鮮な企業集団が、ハイテク最前線で大活躍をしている。技術者も研究者も、マルクスのいう「結合された生産者たち」の有力な一部分で、これらの企業集団では、若い息吹が経営全体にみなぎっているようです。

 私は、「北京の五日間」のなかで、新しい企業集団にふれた印象と感想を、次のように書きました。

 「科学院にしろ、北京大学、清華大学にしろ、政府が管轄する一部門だから、全額出資かどうかは不明だが、『公有制』に近い企業形態に属することは間違いないだろう。しかし、そこでは、ソ連型の国有企業とは違って、外から配置された官僚集団ではなく、研究者や技術者が創業と経営の中心となり、現場に直結した若い力が経営を動かしているように見える。

 そういう企業がこれからの発展のなかで、どうなってゆくのか、そこには多くの未知の要素があり、飛躍的な前進もあれば、後ろ向きの後退もあるだろうが、少なくとも注意して見てゆきたい新しい問題がここにある、そんなことを考えながら、釣魚台の国賓館〔次の日程のこと〕に向かった」。

 こうした新しい動きには、興味深い研究問題がある、と思います。市場経済のるつぼのなかで、社会主義の方向をめざした企業形態が、多様な形態で生み出され、発展してゆく。そのなかには、市場経済の点検のなかで、りっぱに根をおろし発展的に伸びてゆくものがあるでしょう。また、成功しないで消えてゆくものもあるでしょう。そういう形で、「生産手段の社会化」の多様な形態がためされ、そのことを通じてより有効な形態が見いだされてゆくところに、「市場経済を通じて社会主義へ」という発展過程の一つの重要な特徴があるのかもしれません。

社会主義への前進は「時間を要する漸進的な仕事」(マルクス)

 いまの問題にも関連することですが、マルクスには、資本主義から社会主義への発展の過程を論じて、それが革命後も、かなり長期の過程となることを予想した興味深い文章があります。

 『フランスにおける内乱』(一八七一年)という著作の草稿のなかの文章なのですが、そこで、マルクスは、「自由な協同労働の社会経済の諸法則」、つまり社会主義・共産主義の社会経済の法則が、「資本主義の自然諸法則」にとってかわって、「自然発生的な作用」をもってはたらきだすようになるまでには、かなり長い時間がかかる、ということを論じたのです。

 マルクスは、そこで、資本主義から社会主義・共産主義への社会の交代を、過去に起きた社会の交代と比較しています。奴隷制の経済法則が封建制の経済法則にかわるときにも、長い過程が必要だった、封建制の経済法則が資本主義の経済法則にかわるときにも、長い過程が必要だった、それと同じように、社会主義・共産主義の経済法則が、資本主義の経済法則にとってかわり、自然発生的な力をもって社会に定着するようになることは、「新しい諸条件が発展してくる長い過程をつうじてはじめて可能になる」(『フランスにおける内乱』第一草稿 全集(17)五一八ページ)。

 この文章は、マルクスが、革命で社会主義の政権ができたら、一夜にして、資本主義の経済体制が社会主義の体制に切りかえられるなどという空想的なことは、考えていなかったことを、はっきりと示しています。マルクスは、この文章のなかで、経済体制のこの交代は「時間を要する漸進的な仕事でしかありえない」とも述べています(同前五一七ページ)。この過程が長い時間を要するということのなかには、旧体制に固執する以前の支配勢力の抵抗を克服するという問題も、もちろんふくまれるでしょうが、それだけではなく、新しい経済形態が社会の実生活のなかでそれなりに試されながら定着し、「自然発生的な作用」をもつにいたる「長い過程」が考えられていたことは、間違いないことでしょう。いまこの文章を読むと、マルクスが、やはり非常に豊かな「科学の目」をもっていたな、ということを、あらためて考えさせられます。

 人間社会が社会主義にむかって前進するこの「長い過程」は、けっして画一的な灰色の世界ではありえません。いろいろな条件の違う国ぐにで、経済や企業のさまざまな形態が生まれるでしょう。それは、豊かな創造性が競いあう世界となるでしょう。「新しい諸条件」が発展してくる、そうした「長い過程」を通じて、社会主義、共産主義の経済が、自然法則の力をもって、国民のあいだに定着する、こういう社会的な前進がかちとられてゆくでしょう。

 社会主義への前進というのは、こうして、諸国民の英知と努力によって切り開かれてゆく過程であって、外から持ち込まれた青写真にあわせて、経済をつくりなおしてゆくといった人工的な過程では、けっしてないのです。そして、そのことを誰よりもよく自覚していたのが、マルクスでした。

二十一世紀に生きる者の指針として

 “マルクスは、資本主義の批判者としては成功したが、共産主義の予言者としては失敗した”とか、“ソ連の崩壊は、マルクスが描いた共産主義の青写真の破産を証明した”などの議論が、よく聞かれる俗説です。はじめの部分で紹介したアメリカとイギリスの二人の論者も、マルクスの資本主義批判については熱い思いを語りながら、「予言者マルクス」については、この俗説に歩調をあわせていました。

 しかし、いま見てきたように、「共産主義の青写真」なるものをマルクスに押しつけ、しかも、スターリン流のソ連社会がマルクスの青写真の具体化だとする議論ほど、見当違いの話はありません。

 マルクスは、社会発展の法則を誰よりもよく知っていました。いま見てきたように、人類社会の将来展望を青写真的な図式でしばろうとするあらゆる企てを、社会進歩を妨害する誤りとして、もっとも痛烈に批判した人物こそ、ほかならぬマルクスだったのです。

 そのことをよく心得て、私たちがいま『資本論』を読むと、そこには、現在の資本主義世界がどういう点に危機的な矛盾をもち、二十一世紀に存続の是非が問われる致命的な弱点をもっているか、そのことを的確に分析する指針があると同時に、二十一世紀の未来社会を探究してゆく上でも、十分な足場となりうる指針が豊かに含まれていることが、明らかになると思います。

 『資本論』を読むことを志される方があったら、これは十九世紀に書かれた本ではありますが、ぜひ、そういう目で、二十一世紀に生きる者の立場から、挑戦していただきたい、と思います。そのことを申し上げて、話の結びとします。どうも長い時間、ありがとうございました。

 


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