日本共産党

2002年10月27日(日)「しんぶん赤旗」

北京の五日間(40)

中央委員会議長 不破哲三

30日 歴史博物館で


中国古代の青銅器文化に圧倒される

 いよいよ北京滞在の最後の日。趙啓正さんとの約束は、十一時だったので、それまでの時間に「機動」するよい目的地はないかと、地図で見つけたのが、北京飯店のほど近くにある中国歴史博物館。前日に連絡してあったので、開館早々にかけつけたら、谷長江副館長・党委員会書記が出迎えて、館内を案内してくれた。

 中国の歴史は長い。これを短時間で見るのは至難のことだが、駆け足での訪問ながら、圧倒されたのは、夏(か)・殷(いん)・周の諸時代にわたる青銅器の一大群像だった。夏といえば、紀元前二十一世紀から前十六世紀という時代、そのころにすでに青銅器が登場し、殷の時代(前十六世紀〜前十一世紀)に入ると、絢爛(けんらん)豪華な青銅器文化が現出する。

芸術性に満ちた作品群が次々と登場

 繊細な線でさまざまな造形をほどこした見事な芸術作品が、次から次へと出てくる。なかでも、「四羊銅尊(しようどうそん)」の名をもつ壷は、四つの羊の頭を飾る文様の精緻(せいち)なことに目をみはらされた。「尊(そん)」とはお酒をいれる器のことらしい。そこから「樽(たる)」の字ができたのだろうか。

 また、その巨大さに驚かされる大型青銅器もある。その最大のものが国宝「司母戊鼎(しぼぼてい)」で、二つの耳と四つの脚のついた四角の巨大な容器、なんと重さは八百三十二・八四キロ。しかも、いくつかの部分を接合してつくったものではなく、八百三十二キロの青銅を一度に鋳造したものだという。「鼎(てい)」とはなべのことで、肉類を煮るのに使うものだ、という。

 中国の青銅器文化は、さらに西周(前十一世紀〜前八世紀)、春秋(前八世紀〜前五世紀)、戦国(前五世紀〜前三世紀)へと続き、いちだんと芸術性に満ちた作品群を生みだしたのち、漢時代(前三世紀〜三世紀)に鉄器文化と交代した。始まりが夏の時代の末期だったとしても、少なくとも千数百年にわたって繁栄を誇ったわけである。

青銅器文化のこれだけの繁栄は世界に例のないこと

 考古学には、石器時代、青銅器時代、鉄器時代という時代分けがある。しかし、青銅器文化が、これだけ長く続き、これだけの壮大な発展をとげた国は、世界で、中国以外にはないのではないだろうか。

 青銅器の歴史と文字の歴史が重なり合っているのも、興味深いことだった。殷代の青銅器のなかにも、すでに文字の刻まれているものがあるが、西周時代、春秋時代の青銅器になると、百字、二百字という長い文章を内側に刻んだ青銅の壷などが数多くあり、青銅器そのものが歴史の記録になっている。

唐三彩の馬の前で

 そのあと、唐の時代(七世紀〜十世紀)に入ったとき、谷副館長が、「これを見てください」と、一つの像の前で足をとめた。見ると、唐三彩の馬の像である。“唐三彩の馬”というと、茶系統のものが多いように思っていたが、これは、見事な黒馬で、「黒釉三彩馬」と記されている。感心して見ていると、谷さんが「不破さんは馬に興味がありますか」と聞く。なにげなく「私はエトが午(うま)だから、大好きですよ」と答えた。

 時間を気にしながら一通り見て、いざあいさつをして引き揚げようという時に、「ちょっと部屋まで」と、谷さんに応接室に案内された。入ると、机の上に大きな箱がある。なかには、さきほど見たばかりの「黒釉三彩馬」の、いくらか縮尺した複製が収められていて、「今日の記念に贈りたい」とのこと。さきほどの問答は、このための伏線だったかと、はじめて気づいた。土人形にこっている私には何よりのもの、ありがたく頂いて、博物館を辞した。

 谷副館長は、「いまかなりの部分を改装中で、お見せできない部分が多いのは残念だった」と説明していたが、改装が終わったときは、ゆっくり時間をかけ、発掘で実証された夏の時代から数えても四十世紀におよぶ歴史のあとを、味わってみたいものである。(つづく)

 


もどる

機能しない場合は、ブラウザの「戻る」ボタンを利用してください。


著作権 : 日本共産党中央委員会
151-8586 東京都渋谷区千駄ヶ谷4-26-7 Mail:info@jcp.or.jp