日本共産党

2002年9月28日(土)「しんぶん赤旗」

北京の五日間(12)

中央委員会議長 不破哲三

27日 日本での党建設を聞きたい(下)


「執政の党」としての旧ソ連の経験

 最近の中国では、「長期にわたる執政の党」とか「政権党」とかの特徴づけの言葉がよく聞かれる。私は、中国滞在中、中央組織部との交流も一つのヒントにして、政権についた党の基礎組織の、国民のあいだでの活動のあり方という問題を、いろいろ考えていた。

 私は、中国の党のそういう活動について具体的な知識はないが、変質し崩壊したソ連は、この問題でも大きな教訓を残している。

 スターリンだって、あのような抑圧型の専制社会を、はじめから設計図をもって、意図してつくったわけではないだろう。決定的転機になったのは、二〇年代末から三〇年代はじめにかけて強行された穀物の強制収奪と「農業集団化」だったが、その根底には、ソ連共産党が「政権党」でありながら広大な農村に大きな党組織をもっておらず、上からの行政的、強制的手段以外に、農民に働きかける手段をもたなかったという事情が、一つの大きな要因としてあった。

 歴史の本を見ると、農村から都市への穀物の供給が不足し、「穀物危機」が起きたとき、ソ連の党は、全国に百万の党員しか持たず、しかも大部分が都市に集中して、人口一億二千万にのぼる広大な農村地域には、わずか三十万の党員しかいなかった。

 このとき、スターリン指導部がとったのは、「危機」を農民との平和的な話し合いで解決することではなく、都市から、強制的な執行権限をもったいわゆる「外人部隊」を送りこんで、穀物の強制徴収をするという「非常措置」だった。これは、「新経済政策」のもとでは許されないとされ、また農民を自発的意思によって社会主義の事業に結集しようとするなら絶対にあってはならない強制手段だった。

 スターリン指導部は、この非常手段を、次の段階では強制的な「農業集団化」による農村での抑圧型の支配体制の確立にひろげ、さらにこの体制が気に入って、それを全社会に広げていった。

 私は、ソ連社会が専制主義の体制に変質してゆく過程の、重要な一側面がここにあったと考えている。

移動中の車中での対話から

 この角度からみると、政権党である中国共産党が、日本共産党のような資本主義国での党活動、なによりも国民のあいだでの活動の仕方に目をむけはじめていることには、注目すべき大事な方向づけがあるように思う。

 私は、この問題について、移動中の車に同乗する機会の多かった中連部のみなさんを相手に、いろいろな対話を試みた。

 ――「私の若いころ、中国革命や中国共産党の経験をはじめて耳にしたとき、最初に知った言葉は『大衆路線』という言葉だった。革命の形態は戦争だったが、この戦争をたたかった解放軍が、『大衆路線』を最大の行動原則にして、国民各層との結びつきに最大限の注意をはらったという話に心を打たれたものだった」。

 ――(ソ連の失敗の経験も話しながら)「いま中国には六千五百万をこえる党員がいると聞いたが、これは、本当に大きな力だ。もしこの人たちが、二十人の国民の心をとらえる活動をしたとすれば、算術計算だが、その影響は十三億に中国国民全体に広がるじゃないか」。

 草の根での国民との結びつきが政権党をささえる、という問題提起は、かなり分かってもらえたように思う。

そこに大きな将来的意味を感じる

 四年前の訪中のさい、私は胡錦涛(こきんとう)さん(政治局常務委員・国家副主席)に、将来の展望に関連して、次の問題を投げかけた。

 「将来的には、どのような体制であれ、社会にほんとうに根をおろしたといえるためには、言論による体制批判にたいしては、これを禁止することなく、言論で対応するという政治制度への発展を展望することが、重要だと考えます。レーニン時代のロシアでも、いろいろな権利制限の措置がとられましたが、レーニンは、それは革命の一局面の過渡的な制限であって、将来は制限をなくすということを、理論的にも政治的にも明確にしていました。将来的なそういう方向づけに注目したい、と思います」。

 体制批判の言論を強制力ではなく、言論で克服するということは、草の根での言論の力を持たないとできないことだ。そういう意味で、六千数百万の党員を持つ中国の党が、資本主義国での共産党の支部活動に目を向けているということは、かりに当事者の現在の問題意識がどこにあろうと、それを超える将来的意味を持ちうるのではないだろうか。私は、少なくとも、そのことを強く感じている。(つづく)

 


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