日本共産党

2002年9月25日(水)「しんぶん赤旗」

北京の五日間(9)

中央委員会議長 不破哲三

27日 遠い歴史となった「文革」(下)


帰国直前の毛沢東訪問

 もう一つは、三月二十八〜二十九日、私たちが、儀礼的なものだと説明されて、北京からの帰路、上海の毛沢東を訪ねたときのことである。

 そこにいたる経緯を簡潔に説明すると、日中両党会談は、三月三日〜八日、劉少奇(りゅうしょうき)、トウ小平らとのあいだでおこなわれたが、意見不一致のままで終わっていた。私たちは、その後、第三の訪問国である北朝鮮との会談を終え、残してあった荷物を引き取って帰国するつもりで、北京に引き返したのだった。ところが、北京空港に到着したとたん、中国側の様子が変わっていた。空港に出迎えにきた彭真が、今度は、周恩来(しゅうおんらい)が責任者になって、共同コミュニケ作成の会談をやりたい、というまったく様変わりの申し入れ。さきの会談の当事者だった劉少奇はパキスタン訪問で、トウ小平は地方出張で、ともに不在だと説明された。

 私たちは、コミュニケは、一致点だけを簡単に書くものとすることを中国側に確認させ、共同作業でそれを仕上げて、三月二十七日午後、宮本顕治、周恩来の両団長のあいだで正式にこれを確認した。そのさい、コミュニケに「毛沢東を訪問した」旨の記述があるので、上海に立ち寄ってから、帰国してほしいとの申し出があり、これを受け入れて、翌二十八日の毛沢東への儀礼的な訪問となったのである。

毛沢東、「北京は軟弱だ」と党指導部を告発

 ところが、上海で私たちが目撃した事態は、およそ正常な運営をしている共産党であるなら、考えられない異常きわまるものだった。

 毛沢東は、周恩来が中国側の責任者となって合意ずみの共同コミュニケについて、「意見がある」、「これではなんのために出すのかわからない」と難癖をつけ、毛沢東流の「修正案」をもちだした。それは、毛沢東の持論を日本語で一千字にも及ぶ文章として書き込んだもので、両党の一致点で成立したコミュニケを、毛沢東路線支持声明に変質させるものだった。

 翌日の会談で私たちがそれを拒否すると、毛沢東は、共同コミュニケを非難するとともに、「北京の連中もこれに同意したのだろう。軟弱だ」と「北京」非難をおこない、共同コミュニケを「破棄する」と宣言した。

日本共産党との決裂の日に「文革」発動の最初の大号令が

 毛沢東が「北京」でおこなわれた日本共産党代表団と中国共産党指導部との合意の「不承認」を宣言したのは、三月二十八日。

 「文革」の歴史では、この日は、毛沢東が、中国共産党の政治局員候補で書記局員だった康生(こうせい)に、「えん魔殿を打ち倒して、小鬼を解放しよう。地方はうんと孫悟空を送り出し、天宮を騒がすべきだ」との指示を発した日として記録されている。「天宮」とは「北京」の党指導部のこと、「小鬼」、「孫悟空」とは紅衛兵のこと、つまり、この指示は、「紅衛兵を動員して北京の党指導部を打倒せよ」との号令にほかならなかった。そして、この大号令を受けた康生とは、のちに「林彪(りんぴょう)・江青(こうせい)反革命集団」の一員として断罪された人物だった。

 私は、日本共産党との決裂と「文革」発動の大号令とが同じ日になったのは、偶然のことではなく、そのあいだに不可分の関連があったことを、次の言葉で説明した。「康生は、私たちを案内して北京から上海まで同じ飛行機できた。“北京征伐”の号令は、おそらく日本共産党との決裂に前後して出されたのだろう」。これも、目撃者としての証言である。

 実際、のちに発行された「文革」史には、三月二十八日から三十日まで、毛沢東は何度も、康生、江青、張春橋(ちょうしゅんきょう)らと、「北京」打倒作戦について語り合ったと書かれている。私たちの経験と合致する記述である。

「歴史上の人物」にまじって……

 彭真、陶鋳(とうちゅう)、劉少奇、トウ小平、周恩来、朱徳(しゅとく)、康生、毛沢東などなど、いまでは「歴史上の人物」と化した人びとである。そういう人びとを次々と登場させながら、その人たちと話したり論争しあったりした代表団の一員が、「文革」の発動の歴史を、いわば生きたドラマとして語ったわけで、会食の席では普通あまり見られない、緊張した関心が集中した。

 李慎明副院長はすぐ、「この話は、私には分かるが、若い人たちにはよい教育の場になったと思う」と述べる。

 その言葉を聞きながら、現代の中国では、あの「文化大革命」が、内外に「大きな災難」をあたえ、また多くの深刻な教訓を残したが、その諸事実そのものは、いまに生きるものにとって、すでに遠い歴史上の事件となっていることを実感した。

 中連部第二局の実際の局長である李軍さんも、この昼食会の出席者の一人だった。あとで年齢を聞いたら、「一九五九年生まれ」という答えが帰ってきた。「じゃ、『文革』の年は小学校に入ったころですね」、「そうなんです」。こういう世代が、各分野の中堅となっているのが、いまの中国である。(つづく)

 


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