日本共産党

2002年8月23日(金)「しんぶん赤旗」

中国・八路軍に救われた日本人女性

62年ぶりに恩人の村へ

村民500人総出で出迎え

“罪ないみなし子を、のたれ死にさせるな”

聶副司令(後の副首相)は手紙をかいた


 日本が中国への侵略戦争を続けていた一九四〇年、日中両軍の戦闘で両親を失った四歳の日本人の幼女が中国・八路軍に助けられ、約一カ月養育されたのち日本軍に引き渡されました。この女性、宮崎県都城市の栫(かこい)美穂子さん(66)が六十二年後の今月二十一日、自分を送り返してくれた中国河北省の村を再訪しました。五百人の村民は総出で彼女を出迎え、美穂子さんは「感謝と感激でいっぱい」とあいさつしました。

 美穂子さんは父が南満州鉄道勤務だったため一家で河北省に住んでいました。父が副駅長をしていた井陘(せいけい)炭鉱駅は侵略をほしいままにする日本軍の石炭積み出し基地でした。四〇年八月二十日、抗日戦で中心的役割を果たした中国・八路軍がこの地域にいっせい攻撃をかけ、戦闘に巻き込まれた美穂子さんの両親も亡くなりました。

 燃え盛る駅舎から八路軍によって救い出された幼い姉妹が、美穂子さんと生後七カ月の妹でした。

前線指揮所で養育の姉妹は

 八路軍第百十五師団の聶栄臻(じょう・えいしん)副司令の指示で、姉妹は約五十キロ奥地に入った洪河漕(こうがそう)村の八路軍前線指揮所に二日がかりで運ばれました。

 聶副司令のもと、指揮所で二人の養育が始まりました。乳のみ子の妹には母乳を与えなければなりません。ちょうど洪河漕村の実家に帰ってお産をしたばかりの女性が乳母役になりました。

 こうして姉妹は洪河漕と、さらに数十キロ離れた中古月村の二カ所で二十数日を過ごしました。

 聶副司令は姉妹を中国で育てるか迷ったもののやはり日本側に返そうと決意しました。

 当日、姉妹の運び役を担当したのは李化堂さんら村の青年たちでした。てんびん棒の前後にかごをつるし、美穂子さんのためには麦わら帽子や砂糖などを用意しました。聶副司令は日本軍への手紙をしたためていました(一部別掲)。

 送り手たちは、砲弾の飛び交う山道を歩き、翌日には井陘付近の日本軍に姉妹を届けました。妹は不幸にして九月二十四日に亡くなりましたが、美穂子さんは父母のふるさとである都城に帰りつくことができました。

 聶副司令は新中国の成立後、副首相など政府・軍の要職を歴任(一九九二年に死亡)。八〇年に「あの時の姉妹はどうしているだろうか」という思いを発表したことがきっかけで、美穂子さんの存在が明らかになりました。

 当時四十四歳の主婦だった美穂子さんはこの年七月に訪中、聶氏と感激の対面を果たしました。この時に炭鉱駅だけは行くことができました。

“ようやく肩の荷が下りた”

 そしてこの夏、命の原点ともいえる洪河漕村訪問がやっと六十二年ぶりに実現したのです。

 二十一日午前九時。会場の洪河漕小学校前には五百人の村人のほとんどが集まり、美穂子さんの到着を拍手で迎えました。校庭の舞台上で、美穂子さんは「この二十二年間、この地を一度は訪れたいと思ってきました。きょうその願いがかなって胸がいっぱいです。この感激とご恩を忘れず、今後も日中友好のために努力していきたい」とあいさつしました。

 かつての八路軍指揮所は当時の八路軍作戦と聶副司令を記念する展示館になっていました。そこで美穂子さんを待ちうけていたのは運送役の李化堂さんの弟、化瑞さん(78)でした。化瑞さんは美穂子さんに「当時私は十七歳で少年団長でした。美穂子さんは不安だったのか、聶副司令のズボンをしっかり握っていましたよ」と語りかけました。

 八五年に亡くなった化堂さんの墓参もすませた美穂子さんは、「これでようやく肩の荷が下りたようです」と、笑顔を見せました。

 美穂子さんに同行してきた日中友好協会都城支部長の来住新平さんは、「まれにみるヒューマニズムだが、日本軍の侵略という歴史の事実とあわせて語り継いでいくことが大切だと思う」と語っています。

(中国河北省・洪河漕で小寺松雄)


姉妹を送り返すにあたって日本軍にあてた手紙の一部

 人を派遣して幼女を送り返すので、親族に渡して育ててもらいたい。どうか罪のないみなしごを異郷の地で路頭に迷わせ、のたれ死にさせるようなことはしないでもらいたい。

 中国人民は決して日本の兵士や人民を敵とは思っておらず、よって抗日戦争を堅持して命をかけて日本軍に抵抗するのは、日閥の侵略に余儀なく自衛しているだけである。

 


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