2002年7月11日(木)「しんぶん赤旗」
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日本共産党本部ビル建設工事の第一期工事が完成し、党創立八十周年記念日の十五日に引渡式が行われます。党本部が東京・渋谷区のこの地にできたのは一九四五年の終戦直後。今日までの変遷を上田均・本部ビル建設委員会実務局長(党財務・業務局長)に聞きました。
通称「代々木の本部」といえば、日本共産党を誰もがイメージし、「代々木」の地名は、日本共産党の代名詞です。一九四五年の敗戦の直後、焼け野原の中で、代々木駅に降り立つと屋根に大書した「共産党本部」の文字が目に飛び込み、ぽつねんとこの木造二階建ての党本部が見えたといわれます。この当時から共産党本部はこの地域の「名物」だったのでしょう。
この党本部は、軍部に接収された時期を除いて戦時中は溶接学校でした。戦後すぐ持ち主から党に寄付され、ここに日本共産党本部がおかれました。
当時この代々木周辺の建物が鉄道確保で取り壊されたとき、難をのがれたのは、軍の接収によるもので、この場所が戦後の計り知れない役割をになうのは皮肉なものです。
党本部と切っても切れない党機関紙「赤旗」(四六年一月「アカハタ」に名称変更)は、四五年十月から再刊を始め、印刷工場建設もこの地でした。現在の「あかつき印刷」の前身「ヒカリ印刷」工場を党本部の横に建設し、「赤旗」編集局の建物(二階建て)が次々に増設されました。
五〇年、いわゆるマッカーサーによる日本共産党幹部の公職追放、「アカハタ」発行禁止令と印刷工場封印は、この党本部が受けた戦後最初の弾圧でした。党本部をとりまく武装警官の写真はあまりにも有名です。
五二年には「アカハタ」が再刊され、ソ連や中国など外国の党からの干渉による日本共産党分裂の回復にはいたりませんでしたが、その後五八年、党の統一をとりもどし、「綱領」が確定されるのが六一年です。
六〇年、党の躍進と「赤旗」の飛躍的増大に応えて、木造二階建ての党本部を建て替える計画を発表しましたが、安保闘争など政治的情勢の展開のなかで、建設計画は縮小されました。それでも当時の本部ビルは木造から鉄筋五階に、六階建ての「あかつきビル」などに建て替わり、党の発展とともに一つ、また一つと建て増しされてきました。図で見ると、六〇年から九四年まで、八棟もの「ビル群」でつながるものとなりました。
1号館(六〇年竣工)は、2号館とともに「あかつきビル」で「赤旗」の印刷工場と編集局です。当時は、「赤旗」の完全日刊化と日曜版十ページ建ての実現をめざし、高速輪転機の導入と併行してビル建設に入り、輪転機を回しながら工場建設という難工事がおこなわれました。
本館といわれる「本部」の建設は、六七年から丸二年をかけて、四棟木造二階建てを前後半部に分けて二期工事で建てたものです。旧木造「本部」の部分は図の斜線のところです。
1、2号館で操業していた「あかつき印刷」は、八五年にJR線を隔てた党本部の隣に新築したASビルに移り、この八棟の建物全部が党本部となります。
六〇年からはじめた三十四年間の建物の建て増しは、それぞれに党の発展とともに歩んだ歴史が刻まれていますが、建物の非合理性と老朽化は否めませんでした。
党本部ビル建設の契機は、「阪神・淡路大震災」でした。直後の建物の「耐震診断」で一部を除いて「震度7の地震に耐えられない」との総合判断が出て、本部建設に着手しました。
政党本部は、その機能を片時たりとも停止できません。他の場所への転居や、一時移転も議論しましたが、当地にかわる好条件の場所がなく、「代々木」の地で総建て替えという道を選択しました。「代々木の党本部」に深く思いをはせる多くの方々とともに喜びたいと思います。