日本共産党

2002年1月11日(金)「しんぶん赤旗」

不破哲三議長大いに語る

21世紀はどんな時代になるか(6)

聞き手 関口 孝夫赤旗編集局長
    庄子正二郎赤旗編集局次長


いま光る日本共産党の社会主義論…上

 庄子 その社会主義の新しい流れという問題ですが、社会主義の流れそのものは、世界史的に見て、現在、どういう地点にあるのでしょうか。

社会主義のこれまでの流れをふりかえって

 不破 社会主義、共産主義という考えそのものはずいぶん古い歴史をもっていますが、いまの社会主義(科学的社会主義)の思想と運動は、だいたい十九世紀の半ばごろに形づくられたものです。社会主義の政党も、日本ではその誕生は二十世紀に入ってからですが、ヨーロッパの多くの国では、十九世紀の後半に政党の結成まですすみました。そして、資本主義の矛盾もたいへん鋭く現れるようになって、十九世紀の末には、社会主義の運動のなかで、“資本主義の寿命はつきつつある、社会主義実現の日が近づいた”という期待が高まる時代があったのです。

 エンゲルスは、マルクスよりも長生きして、十九世紀の九〇年代まで活動を続けたのですが、そのエンゲルスが、九〇年代には、社会主義の勝利の日を指折り数えて待ったのですね。だいたい二十世紀の初めごろに、ドイツで社会主義政党が政権をにぎり、イギリスやフランスがそれに連動するだろうといった展望を述べた記録が、いろいろ残されています。

 しかし、実際には、資本主義の寿命はつきてはいなかったんですね。矛盾は深刻でしたが、この矛盾をバネにして、新しい発展の時代を開いた。それが、独占資本主義、帝国主義という時代でした。生産力も、それまでの時代には予想もつかなかったような巨大な発展をとげ、地球の全体を直接の支配下におさめるにいたりました。

 この大発展の時期は、それだけ世界的な矛盾も深刻にして、歴史がこれまで経験したことのなかった世界戦争を二回も引き起こし、一連の国ぐにで社会主義革命を生みだしました。しかし、その革命は、資本主義の発達した国ぐにでは生まれませんでした。それには、いろいろな事情がありますが、そのなかでも、資本主義が前向きの活力を失っていない時代だったということが、情勢論的に大きな意味をもったのではないでしょうか。

 最初に社会主義をめざす道に踏み出したソ連が、レーニン死後、スターリン主導の時代に、社会主義に背をむける変質をとげ、専制主義、覇権主義という、社会主義とは異質の姿をむきだしにするなかで、二十世紀最後の時期に、その支配下においていた東欧諸国とともに崩壊しました。当時、ソ連のこの崩壊をもって「共産主義崩壊」論が盛んになったものでしたが、これは、私たちが当時詳しい解明をおこなったように、社会主義に背をむけたスターリン型の専制体制の崩壊以外のなにものでもありませんでした。

 そして、社会主義の体制づくりの事業という面から二十世紀を総括するとき、重視しなければならないのは、社会主義をめざす事業にいま独自の立場で取り組んでいる中国やベトナムなどの存在です。これらの国ぐには、革命前は植民地・従属国の状態にあり、経済もたいへんおくれているというたいへんきびしい条件からの出発でした。それに、ベトナムの場合には、第二次世界大戦が終わったあとも、最初はフランス、次はアメリカと、三十年以上も祖国防衛の戦争を続けるという、たいへんな困難がそれにくわわりました。

 そのなかで、中国もベトナムも、ソ連の崩壊も一つの教訓としながら、市場経済と社会主義との結合という独自の道を探し当て、社会主義への前進をめざしています。市場経済をつうじて社会主義をめざす、しかも経済的にはまだ多くのおくれた条件をもったなかで、社会主義をめざすというのは、世界史のなかでも文字どおり「新しい挑戦」です。それだけに、今後のなりゆきには、未知数の部分も多くふくまれていますが、この流れが二十一世紀の世界に大きな意味をもつことは、疑いないところでしょう。

 そして、二十一世紀には、それにくわえて、発達した資本主義国で社会主義への新しい波が必ず大きなうねりになることを、私たちは確信しています。このことは、ソ連が崩壊したときに、党の声明のなかで大きな展望をしめしたことで、一昨年の党大会でも強調しました。二十一世紀は、必ずそういう時代になると、思っています。

 庄子 いま大会の話が出ましたが、日本共産党は、二十世紀の総括の上にたって、社会主義の大きな展望を示していますね。二十一世紀の社会主義論と言ってよいと思いますが、その大事なポイントを説明してくれませんか。

崩壊したソ連社会をどう見るかが重要

 不破 私たちは、社会主義論としていま、とくに三つの点を提起しています。第一は、ソ連型の政治・経済体制は社会主義とは縁のない体制だったという認識、第二は、われわれのめざす社会主義は、資本主義時代の価値ある成果のすべてを受け継ぎ発展させるものだという立場、第三は、利潤第一主義をのりこえ、人間による人間の搾取をなくすという目標、この三つの点です。これは、すべて、二十一世紀を展望しての提起だと言ってよいでしょう。

 まず第一の点ですが、ソ連で崩壊したような、看板だけは「社会主義」、実態は人間抑圧型という政治・経済の体制と、認識のうえでもきっぱり絶縁する立場をとることは、二十一世紀に社会主義を語るうえで、本当に大切なことです。しかし、社会主義をめざす世界の運動のなかには、この点で、まだ多くのあいまいなものが残っているようです。

 昨年の十一月、中国の北京で、社会主義の問題についての国際シンポジウムが開かれまして、日本からは、社会科学研究所の田代忠利さんが参加して、「日本共産党がめざす社会進歩と社会主義」という報告をおこないました。報告の内容は、『前衛』の二月号に掲載されていますが、会議の模様を田代さんから聞くと、やはりソ連論が一つの大きな焦点になったようです。

 田代さんの報告は、「ソ連社会をどうみるか」という主題を冒頭に提起して、私たちがソ連社会を「社会主義とは無縁の、人間抑圧型の社会」と見ていることを紹介して、なぜそう見るのかをかなり詳しく説明したもので、賛成にせよ、反対にせよ、かなりの反響を呼んだと聞きました。

 各国からの報告では、ソ連型の体制をめざすというものはもちろんありませんが、ではソ連社会の評価は、というと、“腐ってもタイ”といった式の議論がかなり広くあるわけですね。いろいろまずいことはあったけれども、ともかく社会主義であったことは間違いないといった議論です。しかし、他国にたいする覇権主義的な抑圧・干渉というだけでなく、国内でもひどい人間抑圧型の社会であったという実態は、ソ連崩壊以後、事実として広く明らかにされてきたことです。社会主義というのは、人間の解放が最大の理念ですから、“腐ってもタイ”という見方では、この人間抑圧型社会をどうして社会主義と言えるのかを、説明しなければならなくなります。これでは、その説明ができない、というだけでなく、人間解放という社会主義の理念そのものを台無しにすることにならざるをえないのです。

 ソ連社会は“ともかく社会主義”だったという人が、よくその理由とするのは、生産手段を国家がにぎっていた、だから経済の型からみて社会主義だ、という議論です。しかし、国家が経済をにぎっていさえすれば社会主義なのか、社会主義の最大の経済的特質は生産手段の国有化なのか、というと、これは理論的にも、大きな間違いです。

 科学的社会主義の事業がめざす社会主義の目標とは、国家を経済の主役にすることではありません。『資本論』のなかで、マルクスは、社会主義、共産主義社会の話をいろいろなところでやっていますが、国家が中心になった社会といった描写はどこにも出てきません。マルクスが、社会主義、共産主義の社会を語るとき、経済の主役をになうのは、いつも「結合した生産者たち」です。生産者、つまり労働者のことですが、生産にたずさわる直接の当事者が力をあわせて生産手段をにぎり、生産を管理する、これが、マルクスが描きだした社会主義、共産主義の社会の基本的な仕組みです。社会の上に国家(スターリン指導部)が君臨して、生産者をアゴで使う、いやアゴどころかムチで使って経済を動かす、これが“ともかく社会主義”だなどと言われたら、マルクスは“そんな「社会主義」とは私は関係がないよ”と言って悲鳴をあげるでしょう。

 私たちは、一九九四年の第二十回党大会で、ソ連社会論を検討したとき、「国有化」や「集団化」があるから社会主義だという見方をとりあげ、ソ連での「国有化」「集団化」は、人民の解放の形態ではなく、人民を抑圧する専制主義、官僚主義の体制の経済面での土台となった、ということを、はっきり指摘しました。

「たしかに形のうえでは、『国有化』もあれば『集団化』もありましたが、それは、生産手段を人民の手に移すことも、それに接近することも意味しないで、反対に、人民を経済の管理からしめだし、スターリンなどの指導部が経済の面でも全権限をにぎる専制主義、官僚主義の体制の経済的な土台となったのです」(綱領一部改定についての不破報告)。

 こうして、私たちは、国有化があるから“ともかく社会主義”といった見方を、党大会できっぱり否定したのですが、このことは、いまも非常に大事な点なんです。あの人間抑圧型のソ連社会が“ともかく社会主義”の一変種だったという立場を少しでも残していたら、二十一世紀に魅力ある社会主義について語る立場を失ってしまいますからね。第二十回党大会でのソ連社会論は、非常に大きな今日的意義をもっているんですよ。

 庄子 それも、日本共産党が自主独立の立場――理論的にも政治的にも、ソ連の覇権主義を絶対に容認しない立場をつらぬいてきたからこそ、ひきだしえた結論ですね。

資本主義時代の価値ある遺産――民主主義と自由はなかでも重要な成果

 不破 私たちの社会主義論の第二の点は、資本主義時代の価値ある積極的な遺産は、すべて継承し発展させる、という立場です。これは、私たちが早くから明らかにしてきたことで、ソ連が崩壊したからといって、にわか仕込みで言いだしたものではないんですよ。

 とくに一九七六年の臨時党大会(第十三回)で採択した「自由と民主主義の宣言」は、この立場の集大成とも言えるものでした。この「宣言」では、社会生活のあらゆる分野で、なにを発展的に継承するかということを具体的に明らかにすると同時に、私たちのこの「宣言」が科学的社会主義の本来の立場をふまえたものであることを、その理論的な根拠までつっこんで解明しました。

 この立場は、それ以来、四半世紀にわたる活動の歴史に裏づけられて、いまではわが党の血肉になっていると、はっきり言えます。

 遺産の継承という場合、ソ連式のいわゆる「マルクス・レーニン主義」では、物質的な生産力の面だけを強調するのが習わしでした。

 関口 そうでしたね。

 不破 これは、ことの一面にすぎません。私たちは、価値ある遺産の継承という場合、人間の問題、とりわけ民主主義と自由の問題が重要だと位置づけています。民主主義と自由は、資本主義時代に発展してきたものですが、資本主義の経済が自動的に生みだしたというものではなく、その多くは、下からのたたかいによってかちとられた人民的な成果です。

 この問題では、実はきちんと理論的に総括しておくべき一つの歴史があったんですね。

 私は、一九九七年から二〇〇一年まで、四年ほどかけて『レーニンと「資本論」』の研究をやったのですが、そのなかで、民主主義の継承の問題にぶつかったんですよ。第一次世界大戦中、レーニンは、スイスに亡命中で、社会主義と民主主義の関係について、たちいって研究した論文をずいぶん書きました。その基調は、資本主義の時代の民主主義の成果を積極的にひきついで、これを全面的に発展させるのが社会主義だという大胆なもので、そこで展開されている考え方は、いまでも立派に通用するものです。

 ところが、一九一七年の十月革命以後は、ブルジョア民主主義、つまり資本主義体制のもとでの民主主義を社会主義の対立物だとする見地が前面に出てきて、民主主義の発展的継承論が消えてしまうのです。これには、ブルジョア民主主義の体制にあるイギリスやフランス、アメリカが、ロシアにたいする干渉戦争に乗り出してきたとか、民主主義をかちとったドイツの新共和体制のもとで、ローザ・ルクセンブルクの虐殺など野蛮な政治弾圧が横行したなど、当時の国際的な政治情勢の反映という面も、たしかにありました。しかし、それ以上に重要なことは、レーニン自身が、十月革命前に『国家と革命』を書いて、資本主義時代の民主主義と社会主義革命後の民主主義とは、互いに相いれない異質物だという理論的な立場を確立してしまった、という点にありました。それが、干渉戦争というきびしい情勢のなかで、いちだんと極端な形で展開されていったわけで、これは、民主主義の問題での、理論と実践の大後退でした。

 レーニンは、その後、干渉戦争の時代にとられた国内・国際の政策の誤りをただす仕事に取り組み、そこには今日的な意義のある貴重な探究が無数にあります。『レーニンと「資本論」』では、第七巻『最後の三年間』で、その探究をあとづける仕事に取り組みましたが、レーニンが現実に取り組めたのは、政治上、実践上の転換が中心で、理論上の総括まではすすまないまま、レーニンは生涯を閉じました。

 民主主義の継承の問題には、こういう歴史があるのです。やはりこの点では、レーニンが一九一七年以前の段階でとった発展的継承という立場が正確なんですね。『国家と革命』の批判的な総括については、一昨年の新春インタビュー「世紀の転換点に立って」でかなり詳しくとりあげましたが、あそこでの国家論での誤りが、民主主義の発展的継承論を否定する役割をはたしたというのは、問題のいわば急所の一つをなす点なんですよ。

 民主主義と自由の問題をふくめ、資本主義のすべての価値ある遺産を継承し発展させる、という私たちの立場は、科学的社会主義の理論の歴史をふまえた、確固とした地盤に立っているということを、強調したいですね。(つづく)


社会主義論関係略年表

(〔 〕内は日本共産党関係)

    (第一インタナショナル)

1818年マルクス生まれる
 20年エンゲルス生まれる
 48年『共産党宣言』
 64年国際労働者協会創立(〜76年)
 67年『資本論』第一部
 70年レーニン生まれる
 83年マルクス死去
 89年第二インタナショナル創立
 95年エンゲルス死去
1914年第一次世界大戦(〜18年)
 17年ロシア革命
 19年第三インタナショナル創立(〜43年)
  22年〔日本共産党創立〕
 24年レーニン死去
 30年前後スターリンの主導下に、ソ連の変質過程始まる
 39年第二次世界大戦(〜45年)
 45年ベトナム革命
  47年〔第6回党大会、「民族の独立」をかかげる〕
 49年中国革命
  50〜55年〔「50年問題」〕
 59年キューバ革命
  61年〔第8回党大会 党綱領を採択〕
  64年〔ソ連の干渉との闘争始まる〕
  66年〔中国・毛沢東派の干渉との闘争始まる〕
  76年〔「自由と民主主義の宣言」〕
 86年ベトナム、「ドイモイ」の市場経済路線
 91年ソ連崩壊
 92年中国、「社会主義市場経済」路線に
  94年〔第20回党大会、綱領一部改定 崩壊したソ連社会を社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会だったと規定〕
  98年〔60年代以来の干渉問題を清算して中国共産党と関係を正常化〕
 2000年〔社会主義論の三つの立場を提唱〕

 


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